菊地成孔 × 後藤護が語る、『ジェイムズ』のクリエイティヴな誤読「ハックがタバコ吸わないのが、どうしても許せなかった(笑)」

パーシヴァル・エヴェレット『ジェイムズ』(河出書房新社)

 全米図書賞とピュリツァー賞を受賞したパーシヴァル・エヴェレットの小説『ジェイムズ』(河出書房新社)が、2025年6月に邦訳され、多くの読書家たちの関心を集めている。

 アメリカ文学の源流とも称されるマーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒けん』(1885年)を、主人公のハックとともに逃亡する黒人奴隷のジムの視点からアイロニカルに捉え直した本作は、現代のアメリカ文学を知る上でも格好の作品と言えるだろう。

 一方、ジャズミュージシャンの菊地成孔と、『黒人音楽史-奇想の宇宙』(中央公論新社)の著者である批評家の後藤護は、同作を「優秀なエンタメ文学」と高く評価しながらも、深読みをすることで現代のアメリカ文学やエンタテインメントの限界性を感じ取ったという。

 すでに確固たる評価を得ている『ジェイムズ』を、二人はどのように読んだのか。忌憚なき見解を語り合ってもらった。

『ジェイムズ』は『劇画・オバQ』?

菊地成孔

菊地:『ジェイムズ』を最初に読んだときに一番強く感じたのは、「これは『劇画・オバQ』だな」ということです。『劇画・オバQ』は『オバケのQ太郎』の有名なダークサイド・スピンオフで、子どもたちが大人になって再会して、酒盛りをして子供時代に戻ろう!と盛り上がるんだけれど、翌日には普通の会社員に戻っていくという“同窓会の悪夢”みたいな話なんです。それをA24で映画化して、さらに小説に戻したみたいな感じ。どんだけ脱構築かよと期待してると、結局クライマックスはエンタメ的に盛り上がるとか。

後藤:菊地さんのその比喩、すごくわかります。僕も読んでいて「A24感あるな」と何度も思いました。エンタメ小説としては傑作の部類といってよいと思いますが、いい意味でも悪い意味でも、道徳的な“導きの手”がずっと背後にいる感じと言うか……。

菊地:そう。そこがね、どうしても好みの分かれるところでしょうね。僕はどちらかというと、その“導きの手”が見えてくる後半がちょっとしんどい。前半はかなり凝ってて、最初の数章なんか発想の凄さに圧倒されるんだけど、最後は「ジェイムズ」がマーヴェルのキャラクターみたいな大暴れで(笑)。

後藤護

後藤:これ、後半に行けば行くほど完全にアメリカン・ヒーローものですよね。でも僕は、最初の数章を読んだ瞬間に「菊地成孔っぽい小説だ、すげえ傑作!」とも思ったんですよ(笑)。

菊地:前半で良かったですよ(笑)。

後藤:この小説の根幹にあるのって“二重言語”じゃないですか。登場する黒人奴隷たちは、支配白人に対する表向きの英語と、もう一層奥にある仲間うちの暗号的なコミュニケーションを自在に切り替えている。言語学で「コード・スイッチング」と呼ばれるやつで、菊地さんもよくご存じのズージャ語使用のギョーカイ人のいわば元祖ですよね。

菊地:ただ、その“二層化された言語”の扱いは、全編を貫通する仕掛けだけにもっと設定から緻密にした方が良いと思いましたね。奴隷支配に使われた「ピジン英語」に対する意趣返しとして、キングスイングリッシュみたいな、かなりエレガントなのを、黒人奴隷が全員、年齢も性別も地域も問わず隠し共通語として話す。というのは超能力みたいで(笑)、一瞬だけ異形のリアリズムがあるんだけど、その内、リアルさが全くなくなっちゃって。

後藤:奴隷制の歴史を考えると、そんな均一に二重言語のコミュニケーションが成立するわけがない。アフリカから連れてこられた奴隷たちは言語の異なる部族どうし一緒にされ、言語を共有できないように配置されたわけだから、もっと地域性の違いとか、“通じなさ”みたいなものがあったはずなんですよね。

菊地:なんかSFみたいな。批評性を超えて、作為に近いと言いますか。

後藤:僕は夢中で読んでたのでそんなに気にならなかったですけど、言われてみるとたしかに恣意性は感じられますね。でもやっぱり、この小説で一番すごいアイディアと思ったのは、原作にないミンストレルショーの導入ですよね。黒塗りの白人が、黒人を戯画化した演目を同胞の白人の前で見せるという、アメリカ文化にこびりついたあの悪夢。あそこに黒人であるジェイムズが放り込まれていって、黒人にもかかわらず黒塗りをすることで白人になるという皮肉な展開は、構造的にすごく鋭かった。

菊地:二重言語と、ミンストレルショーの一回捻り、との接続は、この小説の最重要ポイントで、ある意味「ハックルベリー・フィン」のスピンオフだという大設定を超えてますよね。「白を黒く塗る=白人」のではなく「黒を黒く塗る=白人」という転倒ね。

『クール・ルールズ』(研究社)

後藤:二重言語にせよミンストレルにせよ、キーワードは仮面ですね。支配白人のまえでは仮面をつけて顔色一つ変えないが、裏では反抗的な態度を募らせているという黒人奴隷のサヴァイヴァルな二重存在性が「クール」とか「ヒップ」の父であることは常識に属しますが、これらの語源って、だいたいアフリカ由来ですよね。ヨルバ語の“涼しさ”を意味する言葉が“クール”に繋がっているとか、『罪人たち』に出てきたジュークジョイントのジュークもアフリカ部族のヴォルフ族の言葉だとされてます。クールのアフリカ起源説に加えて、ヨーロッパ宮廷社交術のスプレッツァトゥーラ(さりげなさ)とかパンツァーハフト(甲冑様式)とかも盛り込んだ『クール・ルールズ』という名著は本書最大のサブテキストだと思いますが、このへんを頭に入れて僕は『黒人音楽史』のなかで、黒人が仮面の裏にヒエログリフを隠しこんでいくアフロ・マニエリスムの系譜を作り上げていったので、今回の『ジェイムズ』にもその延長線を見たわけです。

菊地:ああ。「tutu(トゥトゥ)」が「寒い、涼しい」ですからね。「Itutu(イトゥトゥ)=涼しさ」が「It’s cool(イッ・クーウ)」になり得りますね。そーれはすごいなあ(笑)。

後藤:ハナモゲラみたいな語源解説ありがとうございます(笑)。で、その“クール/ヒップの起源”としてのジェイムズの二重言語生活と、菊地さんのズージャの人としてのイローニッシュなふるまいが、僕の中で自然に繋がってしまったんですよ。

菊地:僕っていうより、マイルス(デイヴィス)とかビートルズとかの属性でもあるような気がしますね(笑)。

後藤:まあ、クールすぎてフールが足りない小説になってはいますが、そのあたり、A24なんでしょうね。

無駄こそがマーク・トウェインの本質

マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒けん』(研究社)

後藤:もともと『ジェイムズ』はマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒けん』の大胆な書き換えとしても話題ですよね。そこについてはどう読みましたか?

菊地:そもそも僕『ハックルベリー・フィンの冒けん』の“最後の10章”がすごい好きなんですよ。無駄が多くて冗長だから、ヘミングウェイをして「読まなくていい」とまで言わせしめてる長くダラダラした狂言劇ですよね。僕はあそこ好き。子どもたちの悪ふざけとしても、長編の児童文学の終結部の在り方としても最高なんですよね。

後藤:あそこって、トム・ソーヤーが戻ってきてからの“大暴走”ですよね(笑)。

菊地:そう。あれこそ「ハックルベリーフィン」の文学的価値の最大の部分で、『ジェイムズ』は、あの部分、巷間言われる「冗長さ」によって、愚直に全カットじゃないですか(笑)。いっぱい賞とった文学作品に言ったら失礼ですけど、こんなん普通のエンタメじゃんって思っちゃいました。斬新で目を引くけど、結局スペクタキュラーでアゲて終わり。っていう意味で、A24的な道徳教師が後ろに立っているような、そんな感じがどうしても拭えなかった。

後藤:『ハックルベリー・フィンの冒けん』のいい意味での雑味、野蛮さ、悠長さがない感じはしますね。

菊地:だとしたらマーク・トゥエインに対するリスペクト無いと思うんですよね(笑)。でね、これは僕の好みだけど、ハックがタバコ(コーンパイプ)吸わないのが、どうしても許せなかった(笑)。スマホが映らない現代ヨーロッパ映画とか、喫煙が映らない現代ハリウッド映画と同じですよ。あれじゃ映倫じゃん(笑)。

後藤:どうでもいい人にはどうでもいい細部ですが、わかる人にはめちゃくちゃ響くポイントですね(笑)。『チェンソーマン』ですら喫煙シーンばんばん出してくるわけですから。

菊地:ハックの魅力は「余りにワイルドな誠実さ」じゃないですか。嘘つくの平気だし、すぐタバコ吸うし、川でナマズ釣って、神様を大バカにしたり、そもそも服着るのが嫌なんだから(笑)。そこから自分の掟を作り出してゆく。

後藤:それで言ったらナマズの描写にも不満あるんですよ。原作では大ボラ含めてめちゃくちゃデカい100kgごえなんだけど、『ジェイムズ』のナマズはリアリスティックに20kg程度だったりする(笑)。

菊地:「ちっさ! 無駄なリアル! だったらタバコ吸えよ!」って思いましたよね(笑)。ミシシッピのロマンって、バケモンみたいなナマズがいそうなところなのに。

後藤:ハックが食べきれないナマズを切り身にしてポッケに入れてたり、基本的にナマズ獲りがサヴァイヴァルなんですよね。『ジェイムズ』は無駄をなるべく出さないSDGsなのかなあ(笑)。だから『ハック・フィン』みたいに、ムダにでかいナマズを捕獲する遊びとか子供っぽい喜びの部分がだいぶ切り落とされている。アメリカの大自然に向けられる「ナマズでかっ!!」みたいなワクワクこそがアメリカ小説を駆動してきたダイナモである、と看破したトニー・タナ―『驚異の支配』の明察を分かってない。ただ、麺=ヌードルのようにヌルヌルして捕まえづらいナマズを自分の手をエサにして釣り上げる「ヌードリング」というミシシッピ・カルチャーを描いた功績は讃えたいですね。下手したら死ぬというワイルドなナマズ捕獲法らしく、これができてアメリカ南部では一人前の男と認められるそうです(笑)。マーク・トウェイン版にはこれが出てこない。

“A24的整頓”の問題

後藤:『ハックルベリー・フィンの冒けん』と『ジェイムズ』の一番の違いをあげるとすると、やはり“A24的な整い方”ですね。丁寧で、静かなエモーションがあって、最後にきれいな道徳がくる。海外だとelevated(意識高い系)ってやや侮蔑のニュアンスを込めた形容句をつけて、A24作品を優等生向けと評する向きもありますね。

菊地:そう。これがね、良くも悪くも21世紀の“正義”だと思うんですよね。今のアメリカの“正しさ”のフォーマット。文化的にも政治的にも。リベラルの限界線なんですかねあれは。

後藤:BLMの影響も大きいですよね。アフロ・アメリカン文化は、良くも悪くもブルースやブラックスプロイテーション映画に顕著ですが、ずっと“粗さ”や“過剰さ”に魅力があったのに、ポストBLMはどうしても倫理的均整を求められる傾向がある。ぼくは「もうひとつのBLM」、つまりBlack <Laughs> Matter(黒い笑いが大切だ)のほうを提唱してますけど(笑)、こっちの「裏BLM」はマッドリブとかタイラー・ザ・クリエイターとかフライング・ロータスとか現在少数の変態でイルな黒人しかおらず、さびしい限りですね。A24は『マンディンゴ』みたいなエグイのを絶対にリメイクしなそうですし、今の時代にヤコペッティの『さらば、アフリカ』が好きだなんて言ったら正義の名のもとに殺害されてしまいそうで、僕など怖くて夜も眠れません(笑)。

菊地:最近見た映画『サブスタンス』がすごい良かったんですよ。「ああ、ルッキズムとフェミニズムやんのね」とタカ括ってたら、モンスター映画で(笑)。なんか、コンプラ疲れが極まって、女性監督が開き直って暴走した結果、逆に健康的になっていた感じ。あれはね、久々に“ちゃんと旨い毒”食った感じがあった。

後藤:ぼくも『サブスタンス』は年間ベストでしたね。あれに、A24の道徳教師の目を盗んで作ったようなA24映画『顔を捨てた男』を併せて“ポリコレを黒に染める”みたいな流れが生まれた気さえします。これは個人的に良い傾向です。

菊地:『ジェイムズ』にもそういう<黒さ>を期待せざるを得ないところがあって、実際のところ引き込みは物凄いですよね。「前半引き込んで、最後畳めない」時代がかなり長かったでしょ。「前半引き込んで、最後は重く整っていく」は悪い進化だとしか(笑)。

後藤:遊んでても最後はマジメになっちゃうんですよね、古典主義者は。

菊地:例えば“ジェイムズが手に入れたペンで何を書くのか”っていうモチーフがありますよね。途中までずっと引っ張っておいて、結局あれは“何も書けませんでした”で終わる。いや、それはもちろん美学として成立するけど、エモさみたいな汎用性が強すぎると思うんです。ずっと映画を参照して語ってますけど、文学とは思えないというか。

後藤:というか、ペンが何度もシンボリックに登場しすぎてペニスみたいになってませんか(笑)。ずっとポッケをペンでもっこりさせながら、感触をたしかめているし(笑)。あと、これは、ずっと僕が言ってることなんですけど―― "自由について語ること”と“自由に語ること”はまったく違う。

菊地:本当にそうですね。

後藤:『ジェイムズ』は、構造的にはかなり前者、“自由について語る”に寄っている印象があります。

菊地:「自由」が本来の意味を狭めて、要するに<狭義の>自由。という、一種の<主題化>が、なんかエモさみたいなもんに乗っかって無反省に完遂してしまった感があるんですよ。<自由>が<狭義>を持ったらもうそれは自由ではない。そのぎりぎりが成り立っていた時代と、その後の時代。という区分はありますよね。BLMの構造的な急所ですけど。

アラン・マバンク『割れたグラス』(国書刊行会)

後藤:「自由などというものは存在しない」と言った土星人サン・ラーは卓見ですよね。で、比較として挙げたいのが、国書刊行会から最近出た『割れたグラス』というアフリカ文学。これはコンゴ共和国版『トリストラム・シャンディ』と言ってよい脱線・横転・事故だらけのアフロ・マニエリスム文学の大傑作ですね。主人公の〈割れたグラス〉は酒場で飲んだくれてる信頼できない語り手で、句点(。)で文章が途切れることなく続く「アフリカの蓮実重彦」みたいなストロング・スタイルで、さらには最初っからインターテクスチュアリティも過剰、翻訳者もその点をよく理解していて、敢えて訳注を過剰に入れて煽ってる。主人公はヤシの木の下でウンコを垂れて大げんかに発展したり、便所に落ちてる自分のペニスの二倍サイズの巨大使用済みコンドームに自信喪失したり、野卑でパンクなユーモアも衝撃でした。装丁も帯文も美意識的に完璧。痺れました。

菊地:いやー、あれは本当にガチガチにすごいですよ(笑)。

後藤:つまり“自由に語る”っていうのは、こういうアナーキーなシャンディズムのことなんですよ。生理的で、混沌として、矛盾だらけで、ジグザグで、ノンセンスと猥語だらけで、ジャンル解体的な。

菊地:まあ、アフリカ文学とアメリカ文学を比較するのはアメリカに対して酷というものだとしても、『ジェイムズ』の押し出され方っていうのは、アラン・マバンク(『割れたグラス』の著者)や、ガルシア・マルケスや、ブラック・スキンじゃ無いけど『折りたたみ北京』の郝景芳ぐらいじゃ無いかな?と焚き付けてくるんだけど、蓋を開けたら<意識の高いエンタメ>でしたよね。まあ、最初からそう思ってれば良かったんですけど、実は「ピューリッツァー賞」という存在の質量が、僕、未だによくわかってなくて(笑)。

“政治的に正しい”から “毒物学的に正しい”へ

後藤:本書の“売り”であるミンストレルショーの話を、もう少し掘り下げたいです。この興業の黒塗り白人による黒人カリカチュアが、19世紀から20世紀にかけてのアメリカのエンタメの人種差別構造のベースになったことは有名ですよね。いわばアメリカ社会の醜悪さも隠さず映し出す“黒い鏡”がミンストレルといいますか。

菊地:今度は映画ではなく音楽のMVになりますけど(笑)、ミンストレルショーそのものでは無いけれども、『ジェイムズ』でも、元ネタの「ハックルベリー・フィン」でも描かれる「説教と大道芸」「インチキ演劇と逃走」をMVで比較的しっかり描いてるのは、ポール・マッカートニーとマイケル・ジャクソンのデュエット曲「セイ・セイ・セイ(’82)」なんですよね。最近はジャン・バティステとかもMVでやってますけど、僕、ミンストレルショーの本質の本質を無邪気に突いちゃってるのは、元ビートルズとマイケルのコンビの方だと思うんですよね。シェイクスピアの膝下である英国人(「ハックルベリーフィン」に登場する<公爵>と<王様>はいんちきのシェイクスピア劇を演じる)と、ある意味で「特殊黒人」である青年=少年のコンビ。という意味で。ただ、ジェイムズ自身が“さらに黒く塗られる”という反転構造=黒人が“黒人を装う”という二段階の仮面を設定することで、アメリカの“黒い鏡”を真面目にしっかりやろう。というのは、発明に近いですよね。

後藤:まあ、ミンストレルで実際に黒人が「黒人」を演じるというバート・ウィリアムズみたいな例は少なからずあったので、厳密にはエヴェレットの発明ではなく、歴史の再発見ですかね。とはいえ、これぞまさに“人種的パス/パッシング”の極致ですよ。黒人が“黒人のフリする”という逆説。

菊地:バックパスというか、パスのインバート(反転)というか、訳者が“なりすまし”って言い換えたのは妥当ですけど、違和感は拭えません。“pass”には移動、通過、境界、越境のニュアンスがあるし、何せ黒い肌を黒く塗るわけで……。

後藤:木原善彦さんの翻訳は全体に達者で読ませましたが、言われてみれば悪魔の中間航路も英語でミドル・パッセージなので“pass”が入っているし、黒人文化の基層には常に“越境者”としてのパス概念があった。神話・民俗学レベルで考えてみても、西アフリカの破壊的トリックスターのエシュ(レグバ)は境界の神さまで、ヨーロッパのヘルメスや日本の道祖神に対応したいわばパスの神ですよね。つまり十字路のようなパッサージュをパッシングする嘘つきで巨大ペニスの神がいて、だから境界=“pass”にたたずむ流浪の黒人にこそブルースは降りてくるわけです。

 で、話が逸れるんですが、菊地さんにご覧いただきたい本を今日はお持ちしました。『The Art and History of Black Memorabilia』という黒人をカリカチュアした人種差別の酷いおみやげをコレクションしたヘヴィーな奇書なんですが、奴隷制時代にじっさいに使われた、手錠や足枷を見開きで見せるエグい写真ページで始まるんですよね【図1】。その無言の、手錠の冷たい金属の質感を見て、ぼくは血の気が引きました。『ジェイムズ』にももちろん鎖は出てくるんですけど、この写真が引き起こすレベルの迫力というか「サスペンス」を感じなかった。この写真には歴史の“手触り”とか“匂い”がある。

図1 奴隷制時代にじっさいに使われた手錠・足枷のコレクション (出典)Larry Vincent Buster, The Art and History of Black Memorabilia (Potter, 2000), pp18-19.

 ここで田中純さんの名著『過去に触れる』に繋ぎたいです、この本の最後に歴史叙述とは何かをダイアグラムにまとめたもの【図2】が出てくるんですが、まず最初に精子みたいな “原‐歴史”と呼ばれるものがウヨウヨしている、第二段階としてその “原‐歴史”を取捨選択して一つにまとめあげるナラティヴ=ヒストリーが出てくる、第三段階ではそのナラティヴに対するカウンター・ナラティヴが出てくるんですが、これをベンヤミンは “歴史を逆なでする”と呼んだらしいです。そして第四段階、歴史を反対側からシュっと逆なでしたときにコンフリクトが起きて、これまで見えなくなってた“原‐歴史”が一瞬だけ局所的に露呈するというんですね。つまり歴史を逆なでするということは、歴史の葬られた亡霊なりデーモンなりを刺激して呼び覚ますネクロマンサーの行為でもあると。だからそれは歴史叙述者さえ安全でいられるかどうか分からないぐらい危険だと。ただ、『ジェイムズ』よりも、ぼくの持ってきた本の奴隷制時代の手錠や足枷の写真のほうが、ずっと歴史を逆なでしていて、デーモンじみた“原‐歴史”を露呈させていると思ったんです。文学と歴史学、あるいは文学と写真をごっちゃにして語るのは方法的にかなり雑ではありますが、ぼくはそう思いました。

図2 田中純作成の歴史叙述のダイアグラム(出典)田中純『過去に触れる 歴史体験・写真・サスペンス』(羽鳥書店、2016年)、500ページ。

菊地:映画、MVと来て、今度は写真の話ですね。『過去に触れる』は副題にある通り、写真を見るという行為で自己の歴史経験を語り直す、それがサスペンスにならざるを得ないという達見ですよね。

後藤:小説のなかで、ジェイムズが使った「神経を逆なでされた」って表現にハックがひっかかって「“逆なで”って何?」と問い返す、やけに意味深な描写がありますよね。読者としてはベンヤミンの「歴史の逆なで」への伏線かとワクワクしてしまうわけですが、結局、BLMナラティヴを逆なでするようなカウンター・ナラティヴはいよいよ訪れず、最後までわりと袈裟斬りだった。

菊地:いやあそうなんですよね。さっき言ったように、「ジェイムズ」のナマズは、ミシシッピの神性を卑しめるぐらいは小さいんだけれども、ナマズに鱗があって、それを逆撫でしたり、ナマズの腹を割いて、そのままフライパンでソーテする。という、マーク・トゥエインには無い「シーン=写真的な」があって、歴史がグロテスクに毛羽立つ寸前を見せる。「うおー」と思うんです。でも、あと一歩のところで、必ず引き返してしまう。その引き返しを生んでいるのが、やっぱり“今のアメリカの空気”では無いかなと思うんですよ。道徳、倫理、コンプラ、BLM後の慎重さ。

後藤:良くも悪くも、いまのアメリカは“歴史の暴力性”を露骨には描けない。A24は『マンディンゴ』をリメイクしない、ましてやアントニオ猪木と闘う予定だった『食人大統領アミン』など……!(笑)

菊地:そして、それが“文学の毒素”を薄めてしまう。アメリカ文学の良さは、かつては毒とエネルギーが、ある意味牧歌的に共存していたことだと思うんですよね。

後藤:一定量の毒はクスリになるという、正しい毒物学の知識が失われてしまいましたよね。今後は「政治的に正しい」ではなく「毒物学的に正しい」を提唱していきたいと思いました。

19世紀アメリカ文学を支えた“詐欺師”という原型

後藤:マーク・トウェインの話をもう少しします。菊地さんが“誇張が美学だ”と言ったように、19世紀アメリカ文化の核には「信用詐欺師(コンマン)」がいるんですよ。トウェインはもちろん、興行師として知られたP.T.バーナムだったり、最近刊行された『ヤギの睾丸を移植した男』(国書刊行会)という評伝でも話題となったジョン・R・ブリンクリーだったり、本書で言えば筏に乗った王様と公爵が詐欺師です。

菊地:アメリカの“詐欺師文化”はかなり本質的で、ある意味、奴隷売買以前からある根深いものだと思うんです。カソリックもプロテスタントも、詐欺の体系の中に押し留めるような、無駄に広大な枠組みがあった。ヨーロッパには古い伝統や階級秩序がある。でもアメリカは、入植者にとっては“何もない土地”から始まったから、価値は“フカしたりカマしたりする”ことで生まれる。ゼロから価値をでっち上げる力。群衆から変なのが現れて演説を打ち、殺されたり逃げたり祭り上げられたりする「場所」ですよね。

後藤:“詐欺師が国を創った”と言っても過言じゃないと思います。バーナムはサルの死体に魚のしっぽをくっつけただけの「フィジー・マーメイド」で大儲けするわけですが、バーナムがつくったアメリカ博物館とかダイム・ミュージアムみたいなゲテモノ珍奇館こそが、無価値のフェイクでしかないガラクタの価値を釣り上げていくアメリカのエンタメとかポップカルチャーの嚆矢ですよね。ただ、ビッグビジネス化するまえは、そこには「担がれる」っていうか、見る側も分かってて騙されるっていうエレガントな美学があったそうですね。日本の見世物小屋にも通じるエクスプロイトの美学ですが、王様と侯爵に対するハックの恭しい態度とかも、その時代の「担がれる」美学をなびかせてますね。

菊地:だから僕は、『ハックルベリー・フィンの冒けん』の王様と公爵がすごい好きなんです。『ジェイムズ』には、あの、マーク・トゥエインが見事に描出した軽さがない。

後藤:『ジェイムズ』では、王様と公爵が最初から“ただの悪い奴”として扱われてますよね。原作の“漫画みたいな軽さ”が全部削ぎ落とされてしまった。そこが『ジェイムズ』の誠実さであり、売りなわけですが。

菊地:それが“リアル”だと思っての演出なのかもしれないけれど、だとしたら相当、症状重いですよね。あんな「絵に描いたような悪役」なんて、必死すぎる社会意識の中に立ち現れるファンタジーでしょう。

後藤:この小説はマニエリスム的な“過剰さ”を恐れているのかもしれませんね。象徴や引用も最小限に抑えられている。奴隷のジェイムズがこっそり読んでる本がJ・S・ミルの『自由論』とヴォルテールの『カンディード』と奴隷体験記って、インターテクスチュアリティとしてわかりやすすぎる。ボルヘスの読者ならぜったい鼻白んでしまう(笑)。改めて、ミニマリズムとマニエリスムは対立すると思い知らされました。

菊地:あと、身体的な“臭さ”がないのも気になった。もともとのハック・フィンの描写って、すごく生々しいじゃないですか、ナマズの内臓、川の匂い、泥の感触。着古した衣類が、何度も濡れては乾く。あんな臭気が漂う児童文学なんてないと思うんですよね。

後藤:あと元々のハック・フィンには、とくに意味もなく野良犬に油ぶっかけて火をつけて遊んでるクズ白人とか出てきますよね。それに比べると『ジェイムズ』は全体的に清潔なんですよね。唯一臭気を感じるのは“養殖場”の場面くらいで……あそこだけ急に『マンディンゴ』みたいに臭い(笑)。

菊地:全体にピッカピカに清潔で無臭の世界が、いきなり計画的に(笑)。臭気って、ああやって「はい、次のシーンは臭気漂うおぞましいシーンです」みたいに、投機的に匂い立つもんじゃ無いでしょ(笑)。本当に映画のカット割りとナラティヴですよね。もっとずっと、頭痛くなるような臭気=狂気を、冒険行為が快楽に変えてゆく。

後藤:そしてその快楽を奪うのが、いまの倫理の枠組みなんですよね。誤解のないように言いますが、BLMはもちろん重要です。でも――その“正義”が膨張しすぎて、逆に表現が保守化してしまう現象がある。というか現状それしかない(笑)。リベラルが最大の保守=警察に転倒する、というSNSで散見されるおぞましい逆説ですね。この対談にもポリスが巡回しないことを願います(笑)。

菊地:まあ21世紀のローリング・トゥエンティーズ・マナーというか、トランプがエヴァンジェリスカスと組むことで、政治と経済と倫理の慣習がめちゃくちゃになって、リベラルが“秩序”を守る側になっちゃってる。文学も芸術もそこに縛られる。“正義の範囲内”がどんどん窒息して、表現の自由が、抑圧的にではなく、解放系の中で奪われてゆくという。

後藤:だから“狂気”や“毒素”が消えていく。BLMの理念は正しくても、その“正しさ”が文化に陰を落とすときもある。それが『ジェイムズ』にも現れていると僕は思うんですよね。

菊地:アメリカ自体が“正義の国”として成立しなくなってる中で出てきた文学として、『ジェイムズ』の最多受賞という事実は、ですから国家の状態を反映している、正当的な社会派小説とも言えるわけですけど、パーシヴァル・エヴェレットって70代でしょ? なんか若者におもねってる感があるんですけど。アンチ・エイジングというか(笑)。

ページターナーよりもページストッパーが重要?

後藤:なんだか「自由に語る」菊地さんの尻馬に乗ってここまで好き勝手言ってしまって、敵を増やすだろうなと正直すごい後悔してるんですけど(笑)、僕はこの本、面白かったですよ。あくまでアフロ・マニエリスムみたいな毒々しいアヴァンギャルド評価軸を設定して、マニエリストふたりが話したら、だいたい上のような評価になるというだけの話で、エンタメ評価軸なら逆にこっちが完全に落第点なわけで。

菊地:僕も一気に読んじゃいました。いわゆるページターナー(「読者に移入させ、どんどんページを捲らせる作家)だし、優秀なエンタメ文学、というか、最初に戻りますが、既にあるアメリカ映画のノヴェライゼーションだと思いますよ。最後なんて「黒いハルク」でしょ。いよいよ黒い鏡を覗いたらこうなったか。という。

後藤:うん。そして“アメリカが自分の歴史とどう向き合うか”という問いは、確実にここにある。ただし――

菊地:――“映倫に従う”(笑)。

後藤:エヴェレットも『ムーンライト』とか見て感動したクチだと思うので、「俺の小説もA24が映画化してくれるかも……」とか映倫を気にしながら書いてたのかな(笑)。

菊地:でも、それが“今のアメリカ”なんでしょうね。“時代の記録”として読めば、有意義性が非常に高くなるような小説ですよね。極端な話、スコット・フィッツジェラルドみたいな。

後藤:BLMばやりだったころの代表的文学として、後世から絶対に顧みられる優秀な作品ではあるでしょうね。とはいえ、『グレート・ギャツビー』の乱雑なパーティーシーンに同時代の熱力学第二法則(エントロピー)の影響を見て取る、ぼくのお師匠さんの高山宏みたいな綺想主義者もいますし、『ジェイムズ』にもBLMの埒外にあるような変なリンクを発見できればテキストとしてリッチになるでしょうね。つまり読み手のほうが、古典主義的な作品をマニエリスティックに「誤読」していく労力も必要かなー。

菊地:映画ファンや音楽ファンにはむしろ抵抗感が低く、ちょっとなんかさあ、BLMがジャパンクール経由したような所も、気が付かないぐらい備えちゃってると思うんで、「今、めちゃくちゃキテるアメリカの文学ってこれだよ」という事を、<文学しか嗜まない人々>に査定してほしいですよね。「こんな構えの小説が、こんなに<面白くて>良いの?」という。僕みたいな感覚だと、「もっとページを捲る手を止めてほしい」とか思っちゃうんですよね(笑)。

後藤:待望される文学的メシアはページターナーよりもページストッパーですよね(笑)。黒人文学にも『ポリフィルス狂戀夢』クラスのページストッパーが出現したとき、文学におけるアフロ・マニエリスムの真のはじまりとなるでしょう。そういう意味で、この対談が少しでも“別の読み方”、クリエイティヴな誤読の入り口になれば嬉しいです。

■書誌情報
『ジェイムズ』
著者:パーシヴァル・エヴェレット
価格:2,750円
発売日:2025年6月27日
出版社:河出書房新社

関連記事