杉江松恋の新鋭作家ハンティング くだらないことと人生の奥深さを感じさせるものを同時に描く『降りる人』
『降りる人』って何を降りるのだ、とまず思う。
第16回小説野性時代新人賞を受賞した、木野寿彦のデビュー作題名だ。興味を惹かれつつページをめくる。
派遣会社に登録して期間工として働く、三十歳の男性が主人公である。一人称は〈僕〉だが、最初の2ページにそれはでてこない。金曜日は夜勤で、職場に向かう場面から話は始まる。住んでいるのは社宅として使われているアパートだから、迎えのバスが前に止まる。「暗い闇の中」歩いていく主人公も、「皆視線を合わせないように目を伏せている」先にバスに乗っていた数名も、世界から発見されないために気配を押し殺しているように見える。極力人称を使わないという技巧が功を奏している。唯一の例外は主人公をバスの中で待っている友人の浜野だ。浜野は会話の声が大きく、主人公をはらはらさせる。浜野は『降りる人』の特異点であり、ひとところに留まろうとする物語を先へ先へと押しやる原動力にもなっている。主人公の名前が宮田であることも、浜野の台詞で初めてわかる。
仕事でミスをして落ち込むと、アダルトビデオを買うことにしていると浜野は言う。そんなものはいくらでもネットに転がっているのではないか、という宮田に対して、少し考えてこう返答する。
「いいか宮田、アダルトビデオは無からひょっこり生まれるものじゃない。俳優が演技をして、スタッフがそれを撮影して編集して作られるものだ。そこには明確に労働が発生している。労働には対価を支払わないと世の中の仕組みがほつれる。ネット上に転がっているアダルトビデオを無料で楽しむのは、道端に落ちているものを拾って自分の者にするような行為だと俺は思う」
彼の発言は映画とアダルトビデオに関するものが大部分を占めている。キャラクターとしては変人の部類に入るのだが、その中にまともな信念が垣間見えるので、単なる奇矯には見えないのである。計算が行き届いており、ずっと記憶に残る。『降りる人』という題名も浜野の発言から採られている。
浜野はニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』を読んでいる。「とあるセクシー女優が読んでい」たことがきっかけだ。「著者が必死に自分を鼓舞しているような感じ」が「イキりラップ」のようでおもしろいと感じ、ニーチェ」の言う「超人」に触発されて「降人」という存在を考える。
「降りる人と書いて降人だ。俺にとっての降人がどういう存在か伝えるのは難しいが、要するに、降りるということを選択した存在だ。大事なのは、選択するってことだ。強いられたり仕方なくやるんじゃなくて、自ら選ぶんだ」
降りる、という行為が中心のように見えるが、実は自ら選ぶという部分が重要なのである。右肩上がり、一億総中流社会といった神話がすでに崩壊した時代には新たな現実に即した生活の哲学が求められる。宮田は始め、この概念をよく理解できない。浜野が即興で作ったような概念だから当然だ。だが読み進めていくと、宮田こそが降人という概念を体現しているのではないかという思いを読者は持つことになる。宮田の意思とは別に、そう見えてくる。
小説は「春」「夏」「秋」「冬」「春隣」の5章で構成されている。それぞれで何かが起きて話が展開するという連作小説の形式である。「春」には、前の職場で疲弊させられたために仕事を辞めた宮田が、浜野から期間工は「人間だとは思われない。ほとんど透明」な存在だと知ってなぜか安らぎを感じ、彼と同じ工場で働くことを選択する、という発端が描かれる。
非正規雇用、派遣労働者を描く物語の多くは、正社員との格差がある不公平さや、生活の不安について語る。そうした労働者は搾取の対象にされているという見方も成立する。だが木野は、高所から見下ろすような視点を採用しなかった。さまざまな差別的待遇を受けながらも、宮田は期間工という立場に安らぎを見出している。この個人的幸福が重要なのである。つまり降りている。
「春」では宮田の職場で起きた小さな騒動が話題の中心となる。発端は些細なことで、休憩時間に配布される菓子パンが元だ。スーパーマーケットで特売されるような安いパンだから、ほんとうにちっぽけな原因である。このパンを巡って諍いが起き、大の男たちが本気で争うことになる。
この章を読んで、狭い閉鎖空間の中における息の詰まりそうな人間関係を書く小説なのかな、と思った。連想したのは、安倍譲二『塀の中の懲りない面々』だ。そうではなかった。
「夏」は先のツァラトゥストラ問答が出てくる章で、宮田がやむなく帰郷する場面が描かれる。帰郷先でヤンキー文化の成れの果てのようなかつての友人に会い、別の場面では宮田の下の名前が良一であることが判明する。「夏」で重要なのは章の終わりで、宮田がただ消耗しきっただけではなく、暗いものを抱えている人間であることがほのめかされる。この鬱屈は物語の後半を動かす大事な要素になるが、ある小道具が象徴的に使われて、効果的に表現される。淡々と生きているように見える宮田に偏執があることがここで明らかになる。
「秋」は宮田が淡い恋をする物語だ。宮田は自転車を盗まれる。その自転車が返ってくるのではないかという淡い期待から、駐輪場に佇んで待つようになる。そうして待つ間に朝日さんという同じ期間工の女性と知り合う。ほぼすべての人間関係がうまくいったためしのない宮田にとって、女性と会話をするということはそれ自体が大事件だ。彼の中で朝日さんが占める比重がどんどん大きくなっていく。しかし宮田は、その感情を正しく表現することができない。エマニュエル・ボーヴに『ぼくのともだち』(白水Uブックス)という作品があって、知らないうちに他人をひじで押してしまうような、関係性をうまく築けない人物が描かれるが、宮田から私は同作を連想した。
「春」のエピソードでは単に粗暴な人物として描かれていた鬼木という登場人物が「秋」の章では少しいい役どころで出てくる。宮田と浜野以外の脇役もきちんとした造形が施され、魅力が感じられるのは本作の美点だ。この章では前田という性に潔癖な考え方を持つ男性が登場する。朝日との関係が終わった後で宮田は、なぜか彼にすべてを打ち明けようと考える。「僕らの間には何かしら通うものがあったと思うんです」と言う宮田に、前田さんは「それはあなたの勝手なロマンチシズムでしょう」と切って捨てる。宮田の世界が自己満足のみで成り立っているということをそうやって断定する。閉じた世界に生きている主人公の物語なので、ともすれば彼の価値観が優位であるような錯覚が生じるが、客観的に見ればそれは違うのだということを言うために前田は登場している。作者が宮田との間に適切な距離を取ろうとしていることがわかる。
「冬」は浜野が主役で、アダルトビデオに関するちょっといい話である。浜野が出る場面はどれもいいので本当はもっと紹介したいのだが、必然的にアダルトビデオの話をずっとすることになるので自粛した。「冬」の章がいちばん好き、という読者もいるだろう。そして季節が一巡して「春隣」の章で幕が下ろされる。この物語は螺旋形になっていて、宮田はいつまでも同じところをぐるぐる回っているように見える。だけど螺旋なので、ちょっとは上に行っているかもしれない。逆に少し降りているのかもしれない。その判断は読者に任されている。
「春隣」はそれまでの伏線が回収され、ひとつのけじめがつけられるまとまりのいい章なのだが、やはりアダルトビデオの話題は出てくる。紗倉まなの名前が絶妙のタイミングで出て来て、私は大笑いした。大笑いしながら、少し感動した。猛烈にくだらないことと、人生の奥深さを感じさせるものを同時に描くという技巧が見事である。
ラストシーンは実に素晴らしいのでぜひ読んでもらいたい。細かくは書かないで、最後の数行だけを紹介する。気になったらぜひ読んでください。『降りる人』、本当にいい小説だ。
——画面は遠景のカットに切り替わった。そこに映っていたのは、やけに巨大なクレーンとアクリル板に張り付いた人間の姿、そして、その向こうにある大きな大きな青だった。
最後が青空で終わる小説、好きなのよね。