櫻田智也『失われた貌』なぜ注目されている? 仮説と検証を地道に重ねていく“捜査小説”としての幹の太さ
年度末恒例のミステリランキング企画である宝島社の『このミステリーがすごい!』は、2022年版より投票対象作品を「前年10月~当年9月刊行の奥付のもの」と定めている。したがって文芸書を出版している各社は近年、8月もしくは9月にミステリ分野の勝負作を集中して刊行する傾向にある。今年も8月に気合の入ったミステリ新刊が揃って書評家としては嬉しい悲鳴をあげている状態なのだが、そのなかでも一際、刊行前からのプロモーションを含め版元の熱の入れようが半端ではないな、と感じたのだが櫻田智也『失われた貌』(新潮社)だ。同作については別媒体で既に書評を執筆しているので、本稿では書評とは違った角度で『失われた貌』が何故ここまで注目されるのかを考えてみたい。
まず一つは、本作が作者・櫻田智也にとって初の長編作品になるということだ。櫻田智也は2013年に東京創元社が主催する「第10回ミステリーズ!新人賞」において「サーチライトと誘蛾灯」で受賞、2017年に同編を表題作とする短編集で単行本デビューを果たしている。『サーチライトと誘蛾灯』には昆虫好きの魞沢泉という青年が探偵役として各編に登場し、謎を解き明かす。魞沢泉は一見すると穏やかでとぼけたところがあるのだが、鋭い着眼点で不可思議な出来事の裏にある真実を暴くという、G・K・チェスタトンの〈ブラウン神父〉シリーズや泡坂妻夫の〈亜愛一郎〉シリーズを彷彿とさせる探偵役だ。その魞沢の内面における変化を辿ったのが第2短編集に当たる『蝉かえる』(創元推理文庫)で、櫻田は同書で第74回日本推理作家協会賞長編および連作短編部門と、第21回本格ミステリ大賞小説部門を受賞している。これによって櫻田はレギュラー探偵が登場する連作短編の書き手という認知が広まり、その後の刊行した『六色の蛹』(東京創元社)も〈魞沢泉〉シリーズということで短編作家の印象は更に強まることとなる。そのような流れの中で初めての長編作品を手掛けたと聞いて、これまでの櫻田の活躍を見てきた読者で気にならないものはいないだろう。
第二に、本書が正統的な警察捜査小説のスタイルを以って書かれているということがある。山奥で身元不明の遺体が発見されるところから物語は始まる。その遺体は顔が判別できない位に損壊されており、さらには両腕も手首から先が切断されていた。遺体の身元をすぐには分からない様にしたかったのだろうか。この死体遺棄事件を担当するのがJ県媛上警察署捜査係長の日野雪彦で、彼は部下とともに身元不明の遺体を発端とする複雑な事件の構図を丹念に解いていくことになる。日本における警察小説のブームは1990年代後半から2000年代前半にかけて横山秀夫の短編作品を端緒に火が付き、新たな書き手が増えることになる。2000年代以降に隆盛した警察小説の特徴としては、組織としての警察の有り様そのものに焦点を当てたものや、個性的かつ組織内部でも特異なポジションに立つ主人公をシリーズキャラクター化したものなどが目立つ。『失われた貌』はそうした特徴よりも、主人公が仮説と検証を地道に重ねていく捜査小説としての幹の太さで勝負する作品だ。もちろん、随所には櫻田が短編で培った謎解きの技巧が組み込まれているが、それ以上に捜査小説としての骨格でシンプルに攻めている姿勢が昨今の警察小説ファンへどのように受け入れられるのかも、また注目のポイントである。
なお、同書の編集を担当した新潮社・新井久幸氏のインタビューがリアルサウンドブックに掲載されている。(期待の新刊・櫻田智也『失われた貌』はどこがすごいのか?|Real Sound|リアルサウンド ブック)新井氏は京都大学推理小説研究会出身で古今東西のミステリに精通し、これまでも伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』や米澤穂信『満願』など2000年代以降のミステリシーンにおける重要作を担当してきた人物だ。その新井氏が書いた「担当編集者からの、長くてクドい口上」という挟み込みペーパーが発売前のプルーフに付いていた。そこにはコリン・デクスター、エラリー・クイーン、ロス・マクドナルドといったミステリファンからの根強い支持を集める海外作家たちの名前が連なっている。これらの作家のエッセンスを櫻田智也がどのように受け継ぎ、自作の血肉としたのかはミステリ読者の関心を大いに引き寄せるだろう。このストロングスタイルがミステリファンのみならず、どこまで広範な読者の心を掴み取ることが出来るのかは引き続き見ていきたい。