俵万智に聞く、SNS、ラップ、生成AIとの向き合い方「何を言うのかと同じくらい、何を言わないのかも大事」

生成AIに、おいしいところを持っていかれたくない

――息子さんを通じて知ったラップに対して、最初は嫌悪感のほうが強かったけれど、「持たざる者が生きるための最後の武器なのだ」と気づきを得ているところが印象的でした。自分の価値観に反すると思われることも、俵さんは受け止めて、肯定的に解釈していくのだなと。

俵:言葉というのはそもそも耳から聞くものであると思い出せたのは、ラップに出会ってよかったことの一つですね。短歌を発表するときはどうしたって活字になるし、XやLINEのやりとりなど、視覚情報に頼って言葉をやりとりする場が多くなるなか、ラップの世界に身を置く人たちは、音の響きやリズムを何より大切にしている。最初に音があり、それを書き留めておくために文字が生まれたのだということを、忘れないでおこうと改めて思いました。

――短歌にも五音と七音の心地よいリズムがありますが、なぜ心地よいと感じるのかは解明されていない、と書かれていたのが驚きでした。

俵:もちろん諸説はあるんですよ。たとえば、日本語は二音の単語が多いでしょう。豆、鳩、山、海、川、水、花、空……。それを助詞で繋げようとすると五音になるとか、中国の五言絶句や七言絶句が影響しているんじゃないかとか。でも、決定打はまだどこにもない。それなのに私たちは誰もが経験的にその心地よさを知っていて、五七五七七というリズムが文化として残っている。やっぱりそれも音の響きが最初にあるんだよな、と興味深いです。

――現代詩の方からすると「その定型からどう自由になるか自分たちはあがいているのに、やすやすと乗っかる短歌はズルい」と思われていて、谷川俊太郎さんからも似たようなことを言われたことがある、というくだりがおもしろかったです。

俵:ラッパーのMummy-Dさんもおっしゃっていましたね。私に気を遣ってか「たまに使うとすごい威力なんだけどね」と言ってはくださいましたが、簡単に乗っかるのはダサいという気持ちがあるんじゃないのかな。私は、七五調をつかうと何気ない言葉が生き生きするという実感があるし、「誰もが使えるそんな素敵な魔法があるなら使わない手はない」と思っているから短歌をやっているけど、詩人やラッパーの方々はおそらく「誰もが使える魔法なんて自分は使いたくない」と思っている。どちらがいい悪いではなく、矜持の違いというだけなので、それもまた興味深いですね。

――AIに関しても、想像以上に肯定的に書かれていました。俵さんの短歌を読み込んだ「万智さんAI」なるものが存在することに驚きましたが、俵さんは生成AIがつくる短歌を通じて、技術の進化がもたらす創作の可能性と、人間固有の感性の意義を両方受け止めていらっしゃる。よく考えれば「読む人」は人間なのだから、人の心も表現も決して不要にはならないよなとも思わされました。

俵:人間がつくった短歌と区別がつかないくらい優れた短歌をAIがつくる未来はきっと訪れるだろうと思うのですが、それを「いい歌」として完成させるのはやっぱり読者である人間なんです。作中にも書きましたが、一瞬「それはどうなの?」って思うような短歌も、私たちの解釈次第で素敵な響きを持つようになる。それに、そもそも短歌でいちばん大事なのは、いい歌をつくることではなく、いい歌をめざして心を耕して言葉を選んで試行錯誤すること。その過程にこそ意味があるのだから、どんなにAIが優れた短歌をつくれるようになったとしても、人が短歌をつくる意味も必要性も失われないと思っています。

――自分の中だけにある情景を言葉に変えていく作業と、AIがポンと出してきた短歌に心を打たれることは、まるで違いますよね。

俵:その過程こそがおもしろいのに、機械に任せようなんて思うかしら、と。いちばんおいしいところを持っていかれるのはつまらないので、私はAIの存在をそれほど脅威に感じてはいないし、敵対も否定もしようと思いません。迷ったとき、相談する相手としてAIが存在してくれるのは悪いことではないのだから、必要に応じて使えばいい。だけど、AIの知恵だと思われているものは、そもそも人間が発見を重ねてきた歴史の集大成なのだから、最初のひらめきや違和感に、丁寧に耳を澄ませていきたいと思います。

何を言わないかを考えることが、言葉を生かす

――そして、私たちが安易に使ってしまいがちな助詞の「も」に対して、俵さんがかなり厳しい“「も」警察”であるというエピソードには、襟を正さずにいられませんでした。

俵:生身のコミュニケーションではソフトな雰囲気を出すことが大事なので、「も」や「とか」という、意味を広くもたせる言葉は必要だと思うんですよ。でも、それを創作の言葉として用いるとなると、気になってしまう。とくに短歌は表現の枠が小さいので「も」を使うと情報が増えたような印象を与えるんですよ。たとえば、「水も欲しい」といえば、相手は「あ、水以外の何かも欲しいんだな」と受け取るでしょう。そうした“お得感”がある表現なんです。でも、水だけに対する欲求を伝えるならば「水が欲しい」と言ったほうが正確に伝わる。大事なことは絞って言うべきだと私は思います。だって「君も好きです」と言われたって嬉しくないでしょう。

――たしかに!(笑)

俵:やっぱり「君が好きです」とはっきり伝えなきゃいけないときがあるし、それを伝えられるのが短歌なのではないかと思います。

――『生きる言葉』を通じて、改めて言葉に向き合ったことで気づいたこと、再確認したことなどいろいろあると思いますが、とくに書けてよかったことはありますか?

俵:2024年の秋、東大の駒場祭で英文学者の阿部公彦教授と対談したときに「短歌はいつ完成するものなのですか?」と聞かれたんです。その時は「ちょうどいい濃さになったときですかね」と答えたんだけど、このテーマについてもうちょっと考えてみたいなと思って書いたのが、最後の「言葉は疑うに値する」という章です。短歌は表現の器が小さいから、初心者ほどぎゅうぎゅうに情報を入れようとするんですよ。「も」を使って含みをもたせようとすることも、その一つ。結果、何が何だかわからなくなるというのが、陥りがちな罠。薄すぎても濃すぎてもいけない、そのちょうどよさは経験でわかっていくものですが、短歌に限らず言葉を使う場では「ちょうどいい濃さ」を探ることが大事なんだなと書きながら気づけたことは、よかったですね。

――コミュニケーションだって、濃いからいいとは限らないですもんね。

俵:一回のデートで何もかも詰め込んでうまくいくかといえば、そうはいかないでしょう(笑)。薄ければ次につながらないけど、濃すぎたら辟易してやっぱりそこで終わってしまう。「ちょいどいい濃さ」を探って、言葉を重ねていくことが大事なんだと思います。

――野田秀樹さんの稽古場でのエピソードでも、言葉を足すか引くかの微妙なさじ加減でまるで印象が変わるというお話がありました。俵さんは、その濃さを探るために、どんなふうに言葉を選別しているんですか。

俵:言うべきことを見極めることはもちろん大事なんだけど、意外とみんな「言わないでおくべきこと」については考えないんですよね。簡単に言葉を発信できる時代だからこそ、何を言うのかと同じくらい、何を言わないかについて考えることが大事だと思います。言葉というのは生き物だから、使い手によっても文脈によってもまるで意味が変わってくる。どんな言葉を、どんなふうに使えば、自分の心や人生がもっと生き生きとするのか――それを探りながら、これからも歩んでいけるといいなと思っています。

■書誌情報
『生きる言葉』
著者:俵万智
価格:1,034円
発売日:2025年4月17日
出版社:新潮社

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