千街晶之のミステリ新旧対比書評・第8回 松本清張『神々の乱心』×奥泉光『雪の階』
■松本清張の絶筆『神々の乱心』
『点と線』『ゼロの焦点』(ともに新潮文庫)などの作品で社会派推理小説ブームを巻き起こした松本清張の絶筆となった未完の長篇が『神々の乱心』である。1990年から1992年まで「週刊文春」に連載されたが、著者の逝去により中絶、1997年に文藝春秋から刊行された。現在は上下巻の文春文庫版で読める。
昭和8年、埼玉県特高警察の吉屋謙介警部は、比企郡にある月辰会研究所の存在を知った。地元の警察署長の話では、神がかりの状態による予言の研究団体なのだという。吉屋は、そこから出てきた若い女性を訊問するが、身分証明書によると、彼女は宮内省皇后宮職、すなわち皇室に仕える女官の北村幸子であり、月辰会から深町女官なる人物への封書を所持していた。その後、吉屋のもとに、幸子が入水自殺したという報せが届く。また、深町女官こと萩園彰子の弟・泰之も、幸子の兄の依頼で事件を探りはじめる。やがて、皇居では皇室を呪詛するかのような怪事件が起き、一方では、かつて大連で起きた事件の関係者たちが関東で次々と殺害される。
宮中と宗教団体の関係という、極めてスキャンダラスな題材を扱った小説だが、女官が関与した降霊術騒動は実際にあった。島津久光の孫にあたる島津ハル(治子)は、昭和天皇即位に伴い皇后宮職女官長になった女性だが、職を辞した後、降霊術によって昭和天皇の早期崩御を予言し、皇弟の高松宮を擁立すべきと主張した……という不敬罪で昭和11年に逮捕された。この件について、清張は『昭和史発掘』(文春文庫)で言及している。
しかし、戦前の皇室そのものもファナティシズムに侵されていた。『神々の乱心』では皇后派と大宮派の女官同士の対立が説明されており、萩園彰子は大宮派という設定だが、ここで言及される「大宮さま」とは、大正天皇の皇后にして昭和天皇の生母の貞明皇后(九条節子)のことである。宮中祭祀を重視し、神功皇后のイメージを自らに重ね、帝都が激しい空襲に見舞われるようになっても勝ち戦にこだわり続けた彼女の神がかり的な信念は、イギリス王室を範とした昭和天皇とは相容れぬものであり、母子のあいだには深刻な確執が終生わだかまり続けた。
清張はこうした史実をもとに『神々の乱心』を構想したと思しいが、残念ながら自身の死により未完となった(作中の犯罪は一応解明されている)。ただし、下巻の巻末に付された編集部の註などから、清張が考えていたその後の展開を想像する余地はある。それによると、本物の三種の神器は自分が持っていると主張する月辰会の教祖は、悪天候をついて大宮御所(貞明皇后の住居)に乗り込むも、その時轟いた雷鳴により錯乱して死に至る……という展開だったらしい。清張らしからぬ大時代ぶりではあるが、昭和末期の世紀末ブームに嫌悪感を示していたという彼は、その背景となるオカルティズムを掘り下げなければ気が済まなかったのだろう。そこに、以前からの清張の昭和史に対する関心が不思議なかたちで合体したのが『神々の乱心』だと言えそうだ。