【連載】福嶋亮大「メディアが人間である」 第5回:電気の思想――マクルーハンからクリストファー・ノーランへ

3、スピルバーグの光、ノーランの電気

大島渚『体験的戦後映像論』

 ところで、電子メディアの浸透によって、その覇権的な地位を脅かされることになったのが映画である。20世紀以降の映像の歴史は、映画館の「光と闇」のなかで上映される映画を、家庭ないし個室に向けて放送される電子メディア(テレビ、ビデオ、インターネット)が追走し、やがて追い抜いていくという構図で成り立ってきた。

 今から振り返れば、映画とは、本格的な「電化」の時代を迎える前に栄えた過渡的なメディアであったように思える。そもそも、映画が強く大衆の心をつかんだことそのものが、イレギュラーな――というより奇跡的な――出来事であった。現に、ジャン゠ミシェル・フロドンが示唆するように、歴史の進み方がちょっとでも違えば、映画は科学的観察機器のままとどまったかもしれないし、電子工学の進歩がもっと早ければ、人類は映画よりも先にテレビにたどり着いたかもしれない(※8)。映画の誕生と普及は、まさにメディア史における偉大な寄り道であった。

 では、映画からテレビへの移行は、映像史においてはどのような意味をもつのか。かつて映画監督の大島渚は、写真や映画における暗闇の要素(暗室や映画館)を、制作においても鑑賞においても不要にした点に、テレビの画期性を認めた。映画が暗い空間での「夢」を思わせるのに対して、テレビは全面的な「明るさ」のなかで放送される。それは、何が良い映像かという判断の尺度を変化させる。「映像が夢みる時代から覚醒の時代に入ったのである。〔…〕映像の価値基準は多元化多様化し、映画館の暗い空間のなかの価値基準はそのなかのひとつにすぎなくなったのである」(※9)。

 大島が鋭く指摘したとおり、スクリーンと映写機から成る光学的なモデルは、電送とコミュニケーションのモデルに取って代わられた。そして、この暗さからの解放と覚醒を基調とする明るい電子メディアにおいては、内面は洞窟(夢)のような「暗い空間」に隔離されずに、コミュニケーションの神経系にむき出しにされる。大島がテレビ時代の「覚醒」と呼んだものは、そのままマクルーハンにとっては「不安」の源泉として位置づけられた。覚醒をもたらす明るいメディアが、成熟や自制心よりもむしろ心理的な怯えや脆弱さに直結することは、テレビからインターネットに到っていっそうはっきりしたと言うべきだろう。

 光のメディアから電気のメディアへ――この移行を映画作家に当てはめてみると、どうなるだろうか。ここで独断的に言い切ってしまえば、光の作家を代表するのがスティーブン・スピルバーグであり、電気の作家の先端に位置するのがクリストファー・ノーランである。

 例えば、スピルバーグの代表作『未知との遭遇』(1977年)では、暗夜にピカピカと光り輝く巨大なUFОが、フランソワ・トリュフォー演じる科学者の指揮する集団の前に降り立つ――これはまさに映画そのものの寓意であり、この闇のなかのスクリーン=エイリアンの発する神々しい光に「接近遭遇」した人間は、社会から疎外された孤児的存在になってしまう。光と闇の交差点において、スピルバーグ映画のもつどこかノスタルジックな「孤独」が生じてくるのだ。

 われわれはここで、初期作品『激突!』(1971年/原題はDuel)やH・G・ウエルズ原作の映画版『宇宙戦争』(2005年)等で、スピルバーグが正体不明の敵からひたすら逃げるシーンを執拗に撮ったことを思い出そう。未知のエイリアンを追跡すること(『未知との遭遇』)、あるいは逆に恐るべきエイリアンに追跡されること(『宇宙戦争』)――この追いつ追われつの関係へのオブセッションが、スピルバーグの映画を規定している。それは、スピルバーグの想像力において、関係の非対称性が設定されていることと等しい。エイリアン(光)と人間のあいだの絶対的な隔たり、およびそのエイリアンとの接近遭遇が、追跡のドラマの成立には欠かせなかった。

 それに対して、初期の『プレステージ』(2006年)で、エジソンのライバルであったニコラ・テスラを登場させたノーランには、スピルバーグ的な光へのオブセッションの代わりに、むしろ変幻自在な電気的形態への関心がある。デイヴィッド・ボウイ(!)の演じるノーラン版のテスラは、人間を電気の力で瞬間移動させつつ、その人間の複製をも生み出すミステリアスな装置を発明し、マジシャンである主人公に提供する。ノーランの映画を導くのは、光り輝くエイリアンの到来ではなく、奇術師たちの「分身」のギミック、それも空間的制約を取り払った電気の力による複製の装置なのである。

 スピルバーグの『未知との遭遇』において、巨大な光の塊がスクリーンを占拠するのに対して、ノーランの映画の動力は光のモデル(エイリアンと追跡)ではなく電気のモデル(複製と衝突)にある。『プレステージ』では二人の男性マジシャンがいわば兄弟的なモデル/ライバル関係となって、お互いを模倣しつつ出し抜こうと競いあうが、それはその後のノーラン映画の説話論的な原型となった。バットマンとジョーカーが競合する『ダークナイト』(2008年)をはじめ、エイリアンの垂直的降下ではなくツイン(双子)の水平的増殖こそが、ノーラン映画を特徴づけている。

※8 ジャン゠ミシェル・フロドン『映画と国民国家』16頁。

※9 大島渚『体験的戦後映像論』(朝日新聞社、1975年)238頁。なお、大島の影響を受けた実相寺昭雄は、映画=光学の時代とテレビ=電送の時代の狭間にいた映像作家として理解できる。詳しくは、樋口尚文『実相寺昭雄 才気の伽藍』(アルファベータブックス、2016年)参照。

4、爆縮の巨匠ノーラン

 ロンドン生まれで英文学を学んだクリストファー・ノーランは、今やハリウッドの最大の映画監督の一人であるにもかかわらず、どこかアメリカ映画史における「はみ出し者」のような印象も与える。ノーランは光を求めるスピルバーグ的作家ではなく、その本領は映画を驚嘆すべき「奇術」に差し戻したことにあった。この点で、ノーランの映画はリュミエール兄弟よりも、もとは劇場の奇術師であったジョルジュ・メリエスの系譜において考えられるべきではないか(※10)。

 そして、このノーランの奇術は、電気の時代ならではの諸問題を扱ったマクルーハンの思想とも、図らずも共鳴していたように思われる。改めて『メディア論』の主張を確認しておこう。

機械の形態から瞬間的な電気の形態への移行のスピードが増したとき、爆発(explosion)から爆縮(implosion)への逆転が起こる。今の電気の時代には、われわれの世界の内破あるいは収縮のエネルギーが、古い組織の拡張主義的な伝統的パターンと衝突を起こす。最近まで、社会、政治、経済上の制度や配置はすべて一方向のパターンをとっていた。いまでもなお、われわれはそれを「爆発的」あるいは「拡張的」と考えている。そして、もはやそれは有効ではないのだが、なおわれわれは「人口の爆発」だとか「教育の拡散」だとか言うのである。実際には、人口についてわれわれの関心は、もはやその数の増加に向かわない。むしろ、世界じゅうのすべてのひとびとがきわめて近接して生活しなければならないという事実のほうである。それはわれわれが、電気によって互いの生活に巻き込まれてしまったことから生じたものだ。(※11)

 マクルーハンによれば、活字や機械というメディアを導いたのは、外部への「爆発」や「拡張」の運動である。しかし、電子革命が急速に進み、オーバーヒートしたメディアの熱量が臨界点に達したとき、進化のヴェクトルは突如として反転し、今度は内部への「爆縮」が起こる。この圧縮の結果として、本来は隣り合わないものどうしが、エレクトロニクスの「村」のなかで強制的・即時的に「関与」させられるだろう。私が前回述べた即時性(immediacy)は、マクルーハンに言わせれば電気の時代に新たに発明された問題、つまりグローバル・ヴィレッジ特有の問題なのである。

『オッペンハイマー』

 マクルーハンが爆縮の思想家だとしたら、ノーランは≪爆縮の巨匠≫である。そのことは、彼の近作『オッペンハイマー』(2023年)からもうかがえる。原爆の父オッペンハイマーの人生を主題としながらも、ノーランの主眼は核兵器の爆発とその惨禍の再現にはなかった。ノーランが地響きのような音楽(音響)とともにスクリーンに映し出したのは、むしろオッペンハイマーの内なる揺らぎ、つまり「爆縮」の連続である。核兵器に関わる科学と倫理の問題は、オッペンハイマーという一人の特異な人間に圧縮され、衝突を繰り返すことになる。

 ノーラン的な爆縮は、映画内部のいたるところでクラッシュを引き起こす。『プレステージ』や『ダークナイト』ではその錯綜が主人公の双子化や増殖として現れたが、もう一つのクラッシュの要因は「時間」のテーマにある。現代のインターネットの反応が「瞬間」に支配されているのとは違って、ノーランの『インセプション』(2010年)では、時間はひび割れて複数の層へと再配分される。あるいは『テネット』(2020年)では、順行する時間と逆行する時間がクラッシュするのに伴って、人間もまた『プレステージ』同様に複製される――ちょうどわれわれが、電送によって自身に関わるデータを時々刻々と増やしてゆくように。

 時間は本来、映画自身には捉えることのできない不可視のフレームである。しかし、ノーランはそのフレームこそをむき出しにして、そこに手に負えないほど複雑な操作を施してきた。この反転と捻じ曲げを好む態度は、まさに「電気の時代のマニエリスム」と呼ぶにふさわしい。マクルーハンが見出した爆縮のエネルギーは、希代のマニエリストであるノーランによって、映画の糧に変えられたのである。

※10 例えば、黒沢清+蓮實重彦『東京から 現代アメリカ映画談義』(青土社、2010年)では、アメリカ映画の系譜はいずれもアメリカ出身のイーストウッド、スピルバーグ、タランティーノの三人に代表されている。ノーランがこのうち特にスピルバーグを強く意識しているのは、スピルバーグの『プライベート・ライアン』(1998年)への応答と言うべき『ダンケルク』(2017年)からも明らかである。『プライベート・ライアン』がイギリスからノルマンディーへの上陸作戦をテーマとするのに対して、『ダンケルク』はむしろダンケルクからイギリスへの撤退作戦を描いた。『ダンケルク』にはまさにノーラン好みの「逆行」および複数の時間の層の重ねあわせがあるが、このノーラン的な時空の操作は、映画の進化史をメリエス的な奇術に向けて「逆転」させる企てとも通じあっている。ノーランの映画に、タランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019年)のような「アメリカ映画」そのものを対象とするメタ映画的(ないしシネフィル的)なノスタルジーが見られないのは、示唆的である。

※11 マクルーハン『メディア論』、37‐8頁(ただし、訳語は部分的に変更した)。なお、ジャン・ボードリヤールも主著『シミュラークルとシミュレーション』でマクルーハン由来のimplosionのモデルを用いて、それを消滅の美学やニヒリズムに結びつけている。この両者の共通性については以下参照。
Gary Genosko, McLuhan and Baudrillard: The Masters of Implosion, Routledge, 1999.

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