平野啓一郎が描く近未来の姿ーー『本心』映画版と原作が問いかける、急速な“近”未来のリアリティ

■平野啓一郎の長編小説『本心』映画化

平野啓一郎『本心』(文藝春秋)

 平野啓一郎の長編小説『本心』が、石井裕也の監督・脚本によって映画化された。主人公の男性は企業に依頼し、亡き母親に関して残されたデータから彼女をVF(ヴァーチャル・フィギュア)として拡張現実で蘇らせる。作中の近未来では、本人の意志による安楽死が国家に認められており、それは自由死と呼ばれる。亡母は自由死を選んだのか。息子はVFの母に本心を問いたい思いがあったのだ。

  息子の職業が、依頼者の希望する行動を代行し、ライヴで伝えるリアル・アバターであること。母の友人だった若い女性と彼が、同居生活を始めること。その二人が、ヴァーチャル・ワールドのアバター・デザイナーとして有名な車椅子の青年と知りあうこと。映画は、原作のそれらの主要素をとりこみつつ、アレンジを施している。だが、映画を公開日に観て原作との距離で感じたのは、アレンジによる変化以上に、この現実世界の変化である。原作は2021年に刊行されたが、映画化までのわずか3年間で、同作の描いた“近”未来が予想以上に急速に近づいた印象があったのだ。

  亡き親の幼少期から晩年までの写真を渡すと、時系列に沿った言葉が添えられ、子からの感謝のフレーズで締めくくられる。そのように一般人の生涯が、テンプレのナレーションや字幕でプロモーション映像のように物語化され、DVDでもらえるといった葬儀社のサービスは以前からあった。カメラ付き携帯電話やインターネットが発達して以降なら、写真や動画、文章など個々人のデータ量は飛躍的に増えたから、その人を再構成しうる密度はかつてより大幅に高まっている。しかも生成AIの発達と普及は、ここ数年目覚ましい。『本心』での故人を映像&音声で再現するVFの設定は、原作発表時よりいっそうリアリティを増したし、身近にいた人をVFで復活させたいと願う人もいるだろう。

  VFに心はないとそれを開発しサービスを提供する側は明言する。だが、残されたデータから故人の思考パターンをシミュレートするVFは、本人そっくりだ。ただ、VFは対話によってAIが学習し、利用者が望むように言動を修正していく。VFに故人の本心を尋ねても、答えが利用者の望まないものだったり、違和感を覚えるなどして否定的な態度をとれば、その反応を学習し修正してしまう。もしそれが故人の本当の本心であっても、利用者に受け入れがたいものであれば、本当ではなかったことにされるわけだ。

 『本心』でポイントとなるこのジレンマをめぐり、映画で印象的だったのは、母の笑顔の写真である。現在では写真の補正はごく当たり前になっている。映画では笑顔をより笑顔らしくしていた補正を取り除くと、口角が下がり、無理をしているような、いくぶんさえない感じの本当の表情が露わになる。だが、息子は、補正された笑顔の方を母の本当の笑顔と記憶していたのだ。彼が本当の母を知らなかったと痛感する場面である。

  写真をいかに自由自在に加工できるか、機能を誇るCMに出演していたタレントが、不祥事を起こしたとたんに本人の画像をあちこちで消されたことを私たちは知っている。見たいものだけを見ることができる(見せたいものだけを見せられる)ならば、見たくないものを受け入れる(見せたくないものを隠さない)姿勢がなければ真実は目に入らない。そうした状況の広まりをこの物語は、映し出している。

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