多和田葉子×高瀬アキ 海外で創作を続けることの意義ーー村上春樹ライブラリーイベントレポート
政府からお金をもらえた経験、文化への理解度の違いを知る
ーーその頃は、ウラジオストクからモスクワまで2週間くらいかかりました?
多和田:ウラジオストクは軍港だったので、その隣のナホトカ港まで横浜から船で50時間ぐらいかかりました。ウラジオストクに着いてからハバロフスクまで一晩で行って、それからモスクワまで160時間ぐらいでした。途中でどこに止まるかによって、かかる時間は違うんですけど。
ーーかなり長いですよね。多和田さんがその旅をしたのが1979年ですね。私は80年に飛行機でドイツに行ったんですけど、最初に多和田さんの旅行の話を聞いた時に「なんで飛行機で行かなかったんだろう」と思ったんです。でもそういう風にシベリア鉄道で行くのが、早稲田の露文の学生の間で普通だったというのを、今初めて知りました。
多和田:そうですね。ロシア語を習ってるから、街中でロシア語を話してみたいじゃないですか。でもソ連の人は外国人と会話をしていると怪しまれて困る。知らない人に話しかけたり、個人の家に行ったりしてはいけないという時代でした。でも列車の中は不思議な空間で、いくらでも会話をする。通訳で日本語がすごくできる人もいて、印象的でしたね。日本に一度も行ったことがないのに、ものすごく日本語のうまいガイドのような人が乗っていて。ずっと世話もしてくれるし、見張っていて。
延々と列車に乗っている中、暇で時間があって自分の人生について語り始めてしまうような光景。それはロシア文学を読んでいたので、やっぱり憧れていたところがありました。あまりないじゃないですか。知らない人同士が同じ部屋になって、何日も閉じ込められて話をすると。そこで自分の話を語ってしまうというのは、一つの文学の型でもありますよね。
ーー多和田さんが最初にドイツで出された本の中でも、ウラル山脈やモスクワの風景が詩の中で出てきたりします。あと、その後に出された短編「ヨーロッパの始まるところ」も、その旅を思わせるような小説でした。『容疑者の夜行列車』も、まさにシベリア鉄道が出てきます。
多和田:ずっと後になって『容疑者の夜行列車』を書いたんですけど、その頃はシベリア鉄道だけじゃなくて、ヨーロッパの中で夜行列車を利用していました。例えばハンブルクからウィーンに飛行機で飛ぶと、今のお金の感覚で10万円はする。それが払えないからと、電車で移動していました。ドイツ北部のハンブルクから、いろんな街に行くのに、夜行列車は便利で安いんです。その時はシベリア鉄道のロマンチックな感覚はなくて、普通に使っていました。それで青土社の編集者から「夜行列車の話を書いてみたらどうか」と言われて。私としては、夜行列車は何も見えないし、何も起こらないんですよね。まさに物語性ゼロの場所でした。だから夜行列車の話は書けないだろうと思ったんだけど、書き始めたら不思議なことにどんどん出てくるんですよ。まさに何も起こらずに何も見えない時間を思い出そうとすることが、文学を書く上ですごく刺激になるような感じでした。
ーー高瀬さんはジャズというジャンルだと、アメリカに行く機会が多いように思うのですが、初めて暮らした外国はドイツですか。
高瀬:完全に暮らしたのはベルリンですね。アメリカは叔母が住んでいたおかげで結構長く行ったりしましたけど、暮らしたという印象はなくて。半分以上、仕事でアメリカに行ってましたし。
それでドイツに住み始めたのは1988年。壁が壊れる1年前です。その前も音楽家は演奏してこそですから、演奏場所はヨーロッパが多かったので、よく行ってました。特に81年に初めてベルリンジャズフェスティバルに呼ばれて行ったのがドイツに行くきっかけになって、それからは毎年行っていました。
ーー最も劇的な時期にベルリンに住み始めたんですね。
高瀬:当時、オーケストラの曲を書くと、政府から6000マルクをもらえると聞いてびっくりしました。日本ではコマーシャルの仕事でお金をもらうことはあっても、自分が好きな曲を書いてお金をもらうなんてことはなかった。ものすごく嬉しくて、それもきっかけになりました。そのオーケストラの監督が今、私が一緒にいる亭主なんでございまして、それもあります。
ーーそういう素敵な出会いがあって。
高瀬:素敵かどうかはわからない(笑)。
ーーそこで100万円近いお金が演奏の作曲に対して出たんですね。
高瀬:非常に嬉しかったですね。やはりその時に一番思ったのは、文化の貢献度に対しての理解があることでした。国がお金を払うというのはびっくりしました。