多和田葉子×高瀬アキ 海外で創作を続けることの意義ーー村上春樹ライブラリーイベントレポート
ドイツを拠点に活動する世界的作家・多和田葉子氏とジャズピアニスト・高瀬アキ氏が、10月23日に早稲田大学国際文学館(通称:村上春樹ライブラリー)3周年を記念した、多和田葉子・高瀬アキ パフォーマンス&トークライブ「海外で創作/演奏するということ」に登壇した。早稲田大学教授でドイツ文学者の松永美穂氏が司会を務め、日本語とドイツ語の二言語で創作する多和田氏と、ヨーロッパのジャズシーンを牽引する高瀬氏が、各々の海外生活や創作への思いについて語り合った。その模様を抜粋・編集した記事をお届けする。
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「文化と直接ぶつかったな」外国を訪れた時に感じたこと
ーー高瀬さんは初めて海外に行ったのはいつ、どこでしたか。
高瀬アキ(以下、高瀬):最初に海外に行ったのは、アメリカ・ニューヨークです。ずいぶん昔で、70年代の終わりにニューヨークでレコーディングがありました。短い期間でしたが。ただ叔母がアメリカに住んでいまして、その関係で時々アメリカには行っていました。仕事として行ったのが、ニューヨークでした。 1978〜79年頃ですね。
ーーその頃のニューヨークは、今とだいぶ違うと想像しますが。
高瀬:まずビザが簡単に取れましたね。レコード会社が取ったこともあるけれど。最近はビザを取るのも大変ですよね。その他も、割とゆるやかだった気がします。
ーー街の印象はどうでしたか。
高瀬:最初に「なんて自由なんだろう」と思ったのは、デイヴ・リーブマンというサックス奏者の家にお邪魔していたんですが、その部屋がものすごく大きくて。私は当時、中野に住んでいたんですね。それで日本に帰った途端に「なんて小さなところに私は住んでいたんだろう」と思いました。
ーー家の大きさに圧倒されたと。
高瀬:あと叔母が住んでいたのは、シアトルからさらに北のミネアポリスでした。ものすごく広いんですよね。自分の家を車で移動するくらいだから、やっぱり全然違う。私が住んでいた中野の家なんてピアノを置いたら十分動けないぐらい小さいところだったので、本当に驚きでした。
ーー多和田さんが初めて海外に行ったのはいつ、どこでしたか。
多和田葉子(以下、多和田):私は早稲田の学生時代にソ連に行ったのが初めてでした。当時の露文科の学生の間で、シベリア鉄道を使ってヨーロッパに行くのは割と普通でした。私も電車でドイツまで行ってみようということで、シベリア鉄道の旅を申し込みました。その時の印象の一つは「文化と直接ぶつかったな」という感じです。本を読むのは非常に好きで、ロシア文学やソ連の事情について読んでいましたが、実際に行くと私個人がそこの一部になってしまうわけです。そこでぶつかるわけですよね。私は異物としてそこに行く。例えば、ウラジオストクの港に着いた途端に、子どもたちがワーッと寄ってきて「ボールをくれ」「毛皮とジーパンを取り替えよう」と言ってきたりして。経済的な知識というのと違って、私が異文化と直接ぶつかってしまうような感じでした。それは危険であったり、痛かったりする場合もあれば、快感もあるわけで。読書とは違った感覚がありました。
あとは自然ですね。シベリア鉄道に乗っていると、何日もずっと白樺の林が続いていたりする。バイカル湖も大きくて、一日中ずっと水が見えていたり。それで1、2週間、寝台車に乗っていると、夜に眠れなくて。窓から外を見ると、不思議な幻想的な光に照らされて、木が浮かび上がっているような風景がずっと続くわけです。それが一種の瞑想のような感じで、すごく印象的でした。今でも時々思い出します。この夜行列車の不思議さというのは、その後もずっと気になっていました。日本で乗ったことがなくて、その時が初めてだったんです。だから矛盾するかもしれないけれど、瞑想的な印象とガチャガチャと異文化とぶつかってしまう印象、その二つがありましたね。