のっぺらぼうの名づけ親は松尾芭蕉だった? 妖怪博士が解き明かす、妖怪の名づけの歴史

 実在はしていないはずなのに、図鑑の作られるほど多様な種類をもつ妖怪たち。彼らにも他の生物と同様、種の激増する「カンブリア爆発」にあたる「妖怪爆発」の時代が存在した――。

 本書『妖怪を名づける 鬼魅の名は』(吉川弘文館)は、妖怪爆発の要因が江戸時代の「俳諧」と関係しているという仮説を唱え、その過程を推理するユニークな切り口の歴史書である。著者の香川雅信は兵庫県立歴史博物館の学芸課長にして、日本で初めて妖怪に関する論文で博士号を取得した「妖怪博士」の異名をとる人物だ。そんな著者が仮説の中で常に注目するもの、それは妖怪に対する人々の認識を決定づける、人間の作り出したシステムである。

 たとえば、かつて妖怪の数の増えなかった理由として本書で挙げられているのが、国の危機管理システムである。中世まで「怪異」は、王権にとっての危機が迫っていることを警告する現象とされていた。仏像が揺れた。動物が異常な動きをしている。神木が枯れたなど、神社や寺院、宮中で異常事態が起きた際は朝廷に報告され、凶事の発生を防ぐための読経や奉幣といった神仏への働きかけが行われる。

 そこでは不思議そのものではなく、「何が怪異をひき起こしているか」が重要となる。選択肢が多いと原因の特定に手間がかかってしまうが、少なければ答えにたどりつきやすく、どう対応すればいいのかパターン化もしやすい。そんな合理性のもとに、不思議な現象が起きても鬼・天狗・狐・狸などの仕業だろうと、想定される妖怪のレパートリーは限られていたのだ。

 ところが、戦乱の収まった江戸時代になると話は変わってくる。幕府は怪異について騒ぎ立てることを法度によって統制。すでに形骸化しつつあった、昔ながらの危機管理システムを放棄する。すると人々は怪異を怖がらなくなるどころか、知的興味の対象とするようになる。そして不思議な現象の主体に対し、個別に妖怪として名前をつけていき、名づけによる種の増加が始まる。

 その幾つもの名称を後世に伝える存在であったと、著者の見立てるのが、冒頭にも挙げた「俳諧」である。俳諧とは俳句の前身となる、江戸時代に確立された文芸ジャンルであり、伝統的な和歌では使われない世俗的な言葉「俳言」を用いて句が詠まれる。怪しげな雰囲気をまとう妖怪は、滑稽・諧謔を本質とする俳諧と相性が良く、俳言として認められるようになった。

 とはいえルール上、連歌(連句)の形式をとり、句と句の間における関係性も要求されることから、誰も知らなそうな妖怪を急に使うということは難しい。そこで役に立つのが、俳人たちのネットワークである。俳諧では複数人で句を詠む必要のあるゆえに、人的つながりが自ずと形成されていく。そのネットワークの中で情報の伝承・共有が行われた後に、妖怪にまつわる句が作られていったのだ。

 延宝9(1681)年の『俳諧次韻』に収録されている、松尾芭蕉(当時の俳号は「桃青」)とその門人である才丸(さいまろ)・楊水(ようすい)が詠んだ連句。そこでは、

槌を子にだくまぼろしの君 青
古家の泣(ナク)声闇にさへなれば 丸
いたちの禿倉(ホコラ)風の荒ぶる 水

と、「槌子」(つちのこ)を指していると思われる化物が登場。それを踏まえて異様な雰囲気が、後の句でも途切れることなく醸し出されている。芭蕉は談林派(俳諧の流派の一つ)の妖怪趣味を担った俳人の一人であり、本書によると「のっぺらぼう」は彼の詠んだ句が、文献上では初出かもしれないという。

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