ポストモダン文学はいかにして映画化されたのか? 『インヒアレント・ヴァイス』前編ーー「語り」と「騙り」に揺れる映像化

トマス・ピンチョン『LAヴァイス』(新潮社)

 時は1970年、ロサンゼルスはゴルディータ・ビーチ。けだるい夜。「LSD探偵社」を営むヒッピー探偵、ラリー・“ドック”・スポーテッロのもとに元カノのシャスタ・フェイが訪れる。前触れなき来訪に驚くドックをよそに、シャスタは淡々と依頼を告げる。現在の愛人である不動産王、ミッキー・ウルフマンが誘拐されたというのだ。かくしてドックは大麻片手に事件の捜査に乗り出す。腐れ縁の暴力刑事ビッグフットや友人の弁護士ソンチョを巻き込みながらウルフマンを捜すドックに、またも依頼が舞い込む。なになに、ヘロインの過剰摂取で死んだサックス・プレイヤーの行方を追ってほしいだって? 死人の捜索という頓狂な依頼は、死を偽装した男が政府筋の工作員として利用されているという衝撃の事実を見せる。二つの依頼は怪しい人間たちを介して結びつき、その裏に「黄金の牙」と称される謎の組織と邪悪な陰謀の像を形作ってゆく。はたしてヒッピー探偵は事件を解決することができるのか? 

ポストモダン文学と映画は相性最悪?

 トマス・ピンチョンが2009年に発表した小説「LAヴァイス」が映画化する。しかも監督はポール・トーマス・アンダーソン。この発表がなされた時、ピンチョンの読者も映画ファンも大いに驚いた。それはトマス・ピンチョンという作家が、いわゆる「ポストモダン文学」の第一人者であったからだ。ポストモダン文学、この言葉を一般化することは実に難しい。そもそも「ポストモダン」なる言葉自体、百人いれば百通りの解釈を生むものだろう。

  だが可能な限り平易に表すならば、近代(モダニズム)文学の特徴……首尾一貫した語りや、明確な起承転結構造、堅牢な物語性の真逆をいくもの、それがポストモダン文学となる。物語の「明確さ」を追求した近代文学に対し、ポストモダン文学は、現実と虚構の境界を溶かし、物語が大きな起伏を有さない断片的なものであることを許す「曖昧さ」を是としたものなのだ。……と、ザックリ言ってみたところで、やはり分かったような分からないような感じではなかろうか。正直筆者もそう思う。ではここで恐れ知らずにも、こうザックリ言い換えてみよう。近代文学は映画化が容易なもので、ポストモダン文学は映画化が困難なものである。

『裸のランチ』

 ポストモダン文学に対して映画作家が挑んだ例を見てみたい。デイヴィッド・クローネンバーグはウィリアム・バロウズの代表作『裸のランチ』を1991年に映画化。奇妙かつショッキングな描写が脈絡なく放たれる原作に対し、クローネンバーグはバロウズを投影した主人公を据えることで「いかにして世紀の奇書が生まれたのか」という一貫した語りを設けた。これにより『裸のランチ』は映画としての形を得ることができたわけだが、それは「完全映画化」と言えるものだっただろうか。

  もちろん断片的な描写をそのまま映像化し、ただ繋ぎ合わせることも可能だ。だが、それはもはや商業映画としてのテイを成さず、実験映画の括りに分類されるだろう。広く公開される映画には、映画を串刺しにする「物語」が要求されるのだ。

 そんなわけでピンチョンの小説が映画化されることに対して人々は驚いたのだが、しかもその監督がポール・トーマス・アンダーソンだったので衝撃は倍増。ポール・トーマス・アンダーソンといえば『ブギーナイツ』(1997)で伝説のポルノスターの栄光と凋落を、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007)で石油王の内的破滅を描くなど、ある一人の人間の姿を通して物語を紡いだかと思えば、9人の男女の群像劇を一つの大きなイベントでまとめあげる『マグノリア』(1999)で真逆の離れ技を魅せた、まさに「語りの名手」。そんなポール・トーマス・アンダーソンがポストモダン文学を映画化するなんて、まるで異種格闘技戦ではないか、と多くの人々が考えるのも当然であった。さて、その結果はどうだっただろうか。

ポール・トーマス・アンダーソン、ピンチョンに挑む

『インヒアレント・ヴァイス』

 まず、原作を読むことなく観に行った観客は椅子からずり落ちたことだろう。『インヒアレント・ヴァイス』に、ラリラリ探偵が難事件に挑む異色コメディを期待して映画館へと足を運んだ方も多かったはずだ(予告編はかなりコメディ調に演出されていた)。しかし映画はといえば、事件に対して真相らしい真相は明確に示されず、ドックがあっちにフラフラ、こっちにフラフラ、気だるそうに動き回る様が次々と映し出されるのみ。一言でいえば「なんだかよくわからない」ものとして多くの観客に受容された。ただもちろん本作は、優れた作りの画や抜群の音楽センスによって彩られた作品であるため、それらの点に映画的価値と満足感を見出だす向きが大きかったように思う。

 脈絡があるのかないのか……ラリパッパなドックの千鳥足のごとく、あらぬ方向へと進む物語に頭を傾げた原作未読の観客とは対照的に、原作を読んで映画館へと向かった人々は映画の中にソッと挿入された「語り」に驚きを見せたに違いない。ドックの一人称に近い形で進行していた原作とは異なり、映画ではナレーターが状況を説明する。ドックの元秘書、ソルティレージュだ。

  原作では幻の大陸レムリアについて熱弁を振るう奇人っぷりが印象深い彼女は、映画においては全編を俯瞰視する、まるで守護天使のような役割へと格上げされている。観客に向けて登場人物の関係性を説明し、また劇中で起こる事件に困惑するドックに優しくエールを送る彼女は、まさに実存(映画を観る観客)と幻想(映画の登場人物)の狭間を橋渡しする語り手だ。同時に、語りの色が濃く出すぎないよう、彼女の存在がファジイなものになっていることも特筆すべき脚色だろう。ソルティレージュは車の助手席でドックに対して助言を述べる。そして次のカットでは彼女の姿はそこにない……。一見しただけは気づき難い演出だが、ソルティレージュが幻想的な存在であることを示唆することで、映画内で一貫する語りに対してポストモダン的揺さぶり(語りから騙りへの変容)をかける、優れたワンシーンと言えよう。

 ポストモダン文学は映像化が困難である。この問題に対して、存在の虚実が疑わしいナレーターを登場させるという手法は実に鮮やかな回答であった。いや、回答と言うよりトンチと言った方がしっくりくるかもしれない。そう、このような「人を食った」感覚が映画全編に横溢している。衝撃的な写真を目にして「ウワーッ!」と叫んだ直後に真顔に戻るドックや、片言の日本語で「モット! モット、パンケーク! ハイ! ハイ!」とパンケーキを注文するビッグフットなど、いくつかのシーンは極端にバカバカしく演出されており笑いを誘う。それらに目を引っ張られがちだが、なによりもバカげているのはドックのビジュアルだ。なんせニール・ヤングそのままなのだから。

関連記事