孤単、冷漠、奢求、崩潰……ネガティブワードが浮き彫りにする、中国社会の「闇」とは?

 ここから読み取れることは何か。「崩潰」が広く共有されることで、陰鬱な空気が国中に浸透していくということか。もちろん、それもあながち間違いとは言えないのだが、楊が見据えているのは、むしろその先にある突破口、すなわち「連帯」である。歴史的に見れば、社会運動は多くが抑圧にたいするカウンターとして生起してきたものだが、じっさいに中国における自発的な社会運動も、「崩潰」の共有がその基盤にあるケースがしばしば見受けられるようだ。すなわち、本来なら否定されうる「ネガティブ」な感情が、社会を「ポジティブ」に変えていくための重要なトリガーへと変転したことがここからは読み取れる。

 「ネガティブ」と「ポジティブ」のあわいを考えるうえでは、近年になって生まれた言葉の考察も有用となる。本書でもそのような言葉はページを割いて解説されるが、そのなかでも強い印象を残すのは「佛系」という言葉だ。日本の女性ファッション誌から生まれたともいわれるこの言葉は、「無為無欲系」という意味合いをもつ。中高年の世代からはあきらめや無気力を象徴する言葉としてとらえられることも多いものの、より若い世代からはむしろ解放的なニュアンスでとらえられているという。楊自身も、「佛系」がどんな目にあってもあっさりと受け流すような、ある種の達観を示す言葉としても使用されることを重視し、同時に、社会における「差異の抹消」の重要な契機としてもとらえる。社会的地位や財産の多寡、学歴といった近年の中国におけるヒエラルキーは、「佛系」が内包する「どっちでもいい」といったニュアンスによって無化されることを見定め、そこに旧世代が積み上げてきた、悪しき文化を打破する萌芽を見る。

 終章では、楊は「医学では国民を救えない」をはじめとした魯迅の言葉を引用しつつ、「闇の言葉」の持つ可能性をふたたび強調する。魯迅は処女小説集となる『吶喊』で、精神を変えることこそが、旧弊な体質によって衰弱した中国を救う唯一の道であることを述べ、そのための手段としての「文芸」運動――これまでの道徳や常識を妄信するのではなく、新しい時代への想像力を育むことを主眼とした運動――を提唱した。楊によれば、「文芸的」という言葉もまた、単に文学に慣れ親しむということにとどまらず、自分の感性を大事にすることや、ロマンチックなものに惹かれること、ひいては功利主義とは別なところに価値を見出す意味合いの言葉として用いられるが、「文芸的」は本書で紹介された少なくない言葉と同様に、受け手に与える印象は変化してきた。文化大革命が終わったのちの1980年代には、これまでの文化的な抑圧への反動から、多くの若者たちが文学や思想などに慣れ親しんだことでポジティブなイメージが増したが、90年代以降に社会が経済的な成功を重視する方向に移行すると、現実逃避や悪しきスノビズムのようなイメージばかりが伸びていった。

 しかし、『吶喊』が出版されてから100年後にあたる2023年の上海に、楊は希望を見た。そこでは、ハロウィンで魯迅の仮装をし、「文芸」の重要性を強調する彼の名言を掲げる若者たちがひときわ目立つ形で見受けられたのだ。楊は若者たちがロックダウンによる自由の制限へのカウンターとして「文芸」に、また「文芸的」な態度にふたたび希望を託したことを読み取る。かつてはネガティブなニュアンスで用いられてきた「闇の言葉」は、いまでは若者たちの輝ける指針となり、未来への大きな架橋ともなりえているのだ。このような歴史的な躍動が提示されることによって、ここまで議論されたさまざまな「闇の言葉」も、ふいに「光」に満ちた言葉へと転じたように、読者には感じられてくるだろう。

 「闇の言葉」を社会の病理とみなすのみでなく、歴史性を踏まえたうえで社会の変革の大きな要とみなし、「新しい世界は闇から始まる」と称揚する楊の姿勢は理知的で力強い。社会状況の違いはあるにせよ、同じく鬱屈した空気に包まれたここ日本でも、「闇の言葉」を契機として、より良い一歩を踏み出していくことはできるのではないか。読了後には、そのような思いも自然と頭に浮かんでくる。こうしたやや逆説的な、しかしどこか暖かな読後感も、間違いなく稀有な書き手としての楊の戦略の賜物である。

■書籍情報
『闇の中国語入門』
著者:楊 駿驍
価格:990円
発売日:2024年6月7日
出版社:筑摩書房

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