第170回芥川賞候補5作品を徹底解説 2度目のノミネートが多い中での注目作は?

小砂川チト『猿の戴冠式』(『群像』12月号)

〈【わたしたち】はそれぞれに言葉の通じる同族を持っているはずなんだけれど、それであってさえ分り合えなかった、それどころかひどい誤解を受けた、という経験を、いやというほど何べんも重ねてきている。だから言葉の通じない【わたしたち】がこのようにして、ともだち  のようなものになり得たことに、かえってすんなり納得のいくような〔……〕、いま【わたしたち】の目のあいだにあるものは、あの無理解や隔絶、落胆や孤独とは、ほど遠いものなのだった。〉

 前作『家庭用安心坑夫』(2022年)に続く2度目のノミネート。

 動物園で飼育されるボノボのシネノは、かつて行われたらしいある実験の結果、高度な知性を持ち、人間の言語を理解していた。ゆえにと言うべきか、シネノは同類のボノボの家族たちや、他の動物たちとともに檻に入れられ、観客らの視線にさらされる現在の環境がたまらなく不快で「いやなかんじ」を抱いている。

  だがそんなある日、しふみという人間が突如現れる。どうやら自らが言語を理解していると判っているらしい彼女を、シネノは他人とは思えない。人語を上手く発声のできないシネノだが、しふみの使った「手話」を通じ、一匹と一人は徐々に通じ合ってゆく。だが、それは後戻りできない事態の始まりでもあった。

 相変わらず、変な小説ではある。人間の類似物を経由した思考実験、そして隷属させられたものたちの解放と連帯なども、前作『家庭用安心坑夫』(こちらは、坑夫を模したマネキン人形と心を通わせる話)から通底するテーマであるだろう。だが本作は、それを人ならざるもの(すなわちボノボ)の側から描く点において、いっそう飛躍した試みであると言えるだろう。ゆえに中盤からの展開(ここはしふみの目線から叙述される)は、やや前作のテイストに似過ぎているようにも思われた。

  とはいえ、終盤の展開はやはり読み応えがある。「沐猴にして冠す」(猿なのに冠をかぶっている)とは、項羽に由来する故事成語だったと思うが、本作はそうした軽視を裏返し、知的に反撃しようとしている。変であることの滑稽さと逞しさが同じ水準で同居している点が、前作から続く小砂川氏の小説の妙味である。

三木三奈『アイスネルワイゼン』(『文學界』10月号)

〈「あっ、そうだ、クリスマスイブもね、仕事もらえて。歌手の伴奏なんだけど、うまくいけばそのコネで仕事増えるかも。うん、なんか評判っていうか、あたしのことをどっかから聞いたらしくて、やってくれないかって言われて。……まあね、大変だけど、でも……、大丈夫だよ。/ねえそれ、もう何回も言ったじゃん。もうあそこには戻れないし、戻りたくもないの。」〉

 前作「アキちゃん」(2020年)に続く2度目のノミネート。

 ある理由により以前の職場を辞め、現在はフリーランスでピアノ講師を務める田口琴音は、友人の依頼で、クリスマスイブに開かれる予定のある歌手のコンサートに伴奏として参加することになる。その後の予定は、友人宅でその家族とともに食事をしてから、夜行バスで移動、クリスマスに彼氏と会う手筈になっていた。本作が描くのは、主にこの二日間の出来事である。とはいえ、それはあくまでも予定に過ぎず、実際には計画の破綻が相次ぎ、やがて琴音は「なんなの、今日は……」と天を仰ぎ嘆息することになるだろう。

 前作「アキちゃん」に(賛否こそあれ)ある種の「叙述トリック」を仕掛けた作者の待ち望まれた新作だけであって、本作の語りもまた一筋縄ではいかない。友人や母などとの会話の端々から、徐々に琴音にが抱える問題が仄めかし的に明らかにされていく。母娘の関係がどうやら良好でないこと、いくつかの男女関係のトラブルを経験しているらしいこと、本人は検査しようとしないものの現在妊娠をしている可能性があること……。登場人物たちがしばしば母親や子供、夫や妻、といった血縁関係上の呼び名で呼称される点からも窺えるとおり、さしあたり本作のテーマのひとつは、親/子の関係性であるらしい。と、いろいろ書いておいていまさらだが、本作はあまり内容を知らずに読むのむほうが楽しめる小説のように思う。行き先が分かっていたら地獄巡りではない。ときに友人から「サイコパス」と非難されもする主人公の荒唐無稽ですらある行動の憂鬱なドライブ感に身を任せながら、疾風怒濤の最悪のクリスマスがどこにどう到達するか、作品を手に取って実際に体験してほしい。

 受賞作予想は、本命が小砂川チト『猿の戴冠式』、次点で九段理江『東京都同情塔』です。

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