矢野利裕の『推す力』評:アイドル評論家・中森明夫は「推す」行為の危うさとどう向き合ってきたか?

 本書『推す力』(集英社新書)は、「アイドル評論家」の中森明夫が自らの半生を振り返りつつ、各時代のアイドルについて論じたものだ。本書において中森は、南沙織から中森明菜、さらには能年玲奈やあいみょんにいたるまで、この50年におけるアイドルのありかたを著者自身の思い出とともに串刺しにして語る。視聴者として、ライターとして、長いあいだ芸能界をウォッチしてきた著者だからこそ書くことができた力作だと言える。

 そんな本書で目を見張るのは、やはり中森の先見の明、すなわち「推す力」にほかならない。中森は、SPEEDや上戸彩といったのちに国民的なタレントになる人の才能を一発で見抜く。そうして、その活躍を後押しするかのように論じる。その人がいかにすごいのかということを熱量高く訴える。いまだ明瞭になっていないものを言葉にして可視化・顕在化させることが批評のいとなみであるならば、中森のアイドル論は批評と呼ぶにふさわしいだろう。とりわけ、自身が初取材をおこなった竹内結子との出会いと交流、そして別れについて書かれた第7章は、本書のハイライトのひとつだと言える。著者ならではのアイドル論は、現代日本におけるアイドル文化を考えるための大きな一助になるはずだ。筆者は正直「推す」という行為の勘所がよくわかっていないが、そのような本書の意義は受け取った。

 そのうえで、少し違う角度から。

 筆者は中森と面識のある(というか、帯に推薦コメントを寄せてもらうなどたいへんお世話になっている)者だが、中森さんと話したいけどいまだ話せずにいる話題として次のようなものがある。それは、ロマン優光氏の批判に対してどのように応えるか、ということである。

 ミュージシャンでありライターとしても活動するロマン優光(面識はなくもない)は、2016年の著書『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』(コアマガジン)において、中森に対する痛烈な批判をおこなっている。その批判は多岐にわたるが、アイドル論に関して言えば、現在のアイドルシーンについて詳しいわけではないのに不正確で「いい加減なコメント」を続けている、とまとめられるだろう。筆者は、ロマン的な物言いに全面的に乗る者ではないが、とはいえ、その指摘が間違っているとも思わない。このあたりに微妙な問題がある。

 ロマンも指摘しているように、中森は「おたく」「チャイドル」といった流行語を生みだすなど「名づけのたぐいは凄く上手い」。筆者自身は、豊富な知識から発想される見立ておよび「名づけ」に中森の魅力を感じているところがある。しかし一方で、この「名づけ」によって多様な実態を単純なかたちでラベリングしてしまうこともある。さらに言えば、「アイドルは南からやってくる」「加護亜依は勝新太郎である」といったキャッチコピー的なテーゼは、しばしば「いい加減」だと批判されてしまう。このことをどのように考えよう。

 中森はかつて「AKB48と文学」(『文學界』2012年6月)というエッセイのなかで、「文学」とアイドルはともに「価値の捏造」である、ということを論じている。実体としての「価値」があらかじめ存在しているわけではなく、周囲がその「価値」を作り上げ、盛り上げる。それまで魅力だとされていなかった要素を新たに魅力として発見する。新しい時代のアイドルは、たしかにそのように登場してきた。

 批評行為だって似たようなものだ。いまだ言語化されていないものに言葉を与え、いかに社会的な意義や価値があるのか熱っぽく語る。それこそは「価値の捏造」だろう。中森の主張はロマン優光のような人からは「いい加減」だと批判されるが、とはいえ「捏造」と無縁の言論があるわけでもない。なにかしらの事象を取り出して因果関係をもって語った時点で、それは、多かれ少なかれ「捏造」という性格をはらむ。だとすれば、「捏造」自体が問題なのではない。問題になるのは「捏造」の程度である。したがってロマンの批判は、厳密には、あまりにも大雑把な「捏造」では「説得力がない」、さすがに「ベースとなる情報」くらいは正確であれ、ということになる。じゅうぶんに成り立つ批判だと思う。

 ここで考えたいのは、その「捏造」の裏でなにが起こっているのか、ということである。アイドルが強烈に「価値」を獲得していくとき、その裏ではなにが起こっているのか。「(アイドルは)イメージが大切よ」という歌詞を書いたのは秋元康だったが、事務所が売り出し、メディアが取り上げ、ファンが推し、評論家が論じ……、そうやってアイドルとしての「イメージ」が実体以上に膨れ上がっていくさなか、現に生身の身体をもって生きているアイドル自身は、実際にはなにを感じ、なにを考えているのか。現在、アイドルをはじめとする芸能人について考えるとき、このような問いは避けられないと思う。

 本書において通奏低音のようにずっと流れている問いかけは、アイドルにせよ批評行為にせよ、「価値の捏造」の裏面をどう考えるか、というものである。恋愛を報じられた峯岸みなみは自ら丸坊主になった。『さびしんぼう』で裸体をさらした小林聡美は休憩の時間に涙を流していた。このことをどのように考えたらいいだろう。さらに言えば、岡田有希子と竹内結子の自死をどのように考えたらいいだろう。華やかできらきらとした「イメージ」の裏側では、なにが起きていたのか。

 本書は、昨今しばしばネットで言われるような、「アイドルが人を不幸にする」「ファンがアイドルを死に追い込んだ」「推しは犯罪である」といった曖昧な因果関係を語ることはしない。このような物言いは、アイドル側の主体性をまったく見ようとしていない。とはいえ、本書は一方で、「推す」行為がしばしば持ちうる危うい「力」について示唆し続けてもいる。評論家として言葉を用いてアイドルを「推し」続けた中森は、なによりこの「力」について自覚的だ。

 実際、中森は「言葉を使う仕事をずっと続けてきた自分には、言葉によって状況を一変させる力がある——そう信じていた。しかし、それはいい結果ばかりをもたらすわけではない」(『推す力』)と、自身が「おたく」という言葉を命名したときのことを振り返っている。言葉でもっていたずらに「価値」を「捏造」することによって、「イメージ」は実体から大きく離れて暴走することがある。言葉にはそういう危うい「力」がある。宮﨑勤事件以降、「おたく」という言葉が「異常者をさす称号で呼ばれることになってしまった」ように(『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』)。

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