『北斗の拳』初期の刹那的なグルーヴ感と、終章で盛り返す武論尊の剛腕ーー初見のライターが語る、その衝撃
しかし、「ケンシロウとシンが戦うのは全体ではまだ序盤」という情報を知っているのは、連載が完結した後に読んでいるからでしかない。連載当時の武論尊・原哲夫コンビからすれば、ある時点までの『北斗の拳』はいつ終わってもおかしくない不安定な作品だったはずだ。明日をも知れない連載ならば、今日やれることは全部やりきる。思いついたアイデアは出し惜しみせず、ひたすら全部盛れるだけ盛る。今日より明日より(読者からの)愛が欲しい! その思い切りの良さとヤケクソ気味なクリエイティビティが連鎖して炸裂したことで、初期北斗独特の刹那的なグルーヴ感が生まれたのではないだろうか。
当初連載が終わるはずだったであろうケンシロウとラオウの激闘の後、天帝編や修羅の国編では、初期北斗独特のグルーヴ感は後退する。ケンシロウや北斗の兄弟たちの血筋にまつわる物語が主題になり、登場する敵キャラクターは初期に比べると相対的に長生きになった。さらにケンシロウの前には北斗神拳でも苦戦するような敵が立ちはだかり、戦闘シーン自体が長くなった印象がある。ケンシロウの戦いは「悪役を問答無用で成敗する」のではなく、「対等以上の敵とのバトル」になってしまったのだ。
この変化は大きい。それでも一定以上の面白さは保証されていたのが武論尊・原哲夫コンビのすごいところだが、正直北斗宗家の女人像がどうのこうのというあたりのストーリーは、初期北斗のどぎついグルーヴに慣れてしまった身からすると厳しかった。主人公を「無敵の男」に設定してしまった以上、「どっちが勝つんだろう」というスリルでストーリーを引っ張るのは無理があったのである。
武論尊のすごいところは、そこから終章にかけてさらに盛り返した点にあると思う。修羅の国から戻り老成したケンシロウに若者を教え導くメンター的役割を乗せ、その上で初期北斗的様式美を盛り込んだのである。特にコウケツ農場編では武人たちが覇を争う時代の終わりを感じさせつつ、最終的には小狡い悪党がドブネズミのように死ぬ喉越しの良さでシメており、素晴らしいバランス感覚を見せている。あと、コウケツに関しては「纐纈さん」みたいな名前のモデルがいたのではないかという気がする。
続くアサム王と三馬鹿息子編では、「経験を積み、メンター的役割を果たすケンシロウ」の姿を強く印象付けた。ケンシロウは、国王の後継者の地位を巡って互いにいがみあう三人の王子たちの前に立ちはだかり、越えるべき壁として振る舞うことで見事に争いを収めてみせたのである。そして全ての記憶を失ったケンシロウが己の過去の因果に報われ、ケンシロウとバットとリンという全ての始まりになった人間関係が着地する最終章。全巻通して常に「弟」の立場だったケンシロウが、ここで初めてバットにとっての「兄」となって物語が幕をとじるという、美しすぎるオチには震えた。建築基準法をガン無視した建て増し旅館みたいな計画性ゼロのマンガが、ここまで綺麗に終わるとは……。ストーリーテラーとして武論尊の剛腕ぶりを、最終盤で改めて見せつけられた思いである。
正直に書けば途中でダレたところはあるものの、全巻読んだ今では「なぜ『北斗の拳』はいまだに語り継がれる名作なのか」という点については完全に納得した。無法の地に多彩な悪が登場し、それを無敵の男が粉砕する。その単純な繰り返しが、これほど力強いストーリーを生むとは。もっと早く読んでおけばよかったと思うが、しかし自分はすでに『北斗の拳』を読んだ側にいるわけで、どんなに遅くとも名作を読まないよりは読んだ方がいいに決まっている。少年漫画を経由せずに中年に差し掛かってしまった自分だが、来年も物怖じせずに名作にトライしてみようと思っている。