【直木賞受賞】『極楽征夷大将軍』謎に満ちた将軍・足利尊氏をどう描き直す? 野心的かつ痛快な歴史小説

 かくして、「空っぽ」であるがゆえに、当主として担ぎ上げられることになった尊氏。しかし、京で蜂起した後醍醐天皇の勢力を鎮圧するため、鎌倉幕府から派遣される討伐軍の総大将のひとりに尊氏が任命されたあたりから、2人の「尊氏評」は徐々に変わってくるのだった。いつもと変わらぬ尊氏(高氏)のふるまいが、彼が率いる大勢の坂東武者たちから圧倒的な支持を受けるのだ。直義は思う。「兄の高氏は、一私人としてはどうしようもない泥人形だが、人を惹きつけ、その声望を意図せずして勝ち得るという部分では、まぎれもなく異常人だ。人誑(たら)しの天才だ」。一方、怜悧な思考で常に周囲の人物と情勢を観察し続けている師直は、その状況に激しく戸惑いながらも、やがてある「思い」に至るのだった。「高氏は、波だ。大勢の意見に、ごく自然に従う。決して、その場の流れに逆らわない。人々の欲望や矜持や狡さや、様々な思惑というもので成り立っている大波のうねりそのものに、楽々と乗っかっている」「むろん本人には、動いているという意識すらないだろう。水に、実態がないのと同じだ」と。果たして、本当にそうなのだろうか?

 実際のところ、征夷大将軍となり、室町幕府を開いてからも、政務を直義と師直に任せきりにして、隙あらば隠居しようとする尊氏の「極楽殿」ぶりは変わらない。そんな彼の様子を見て、「自らが考えるということの一切を放棄している」と絶句する直義の尊氏評は、ある意味正しいのだろう。尊氏は相変わらず、尊氏のままなのだ。にもかかわらず、そんな尊氏を中心として、「時代」はドラスティックに変化を遂げてゆくのだ。その有り様は、まさしく「痛快」そのものだ。尊氏の一挙一動に、周囲の人々が何かを読み取ろうすればするほど大きく膨らみ、その存在感と影響力を増してゆく「足利尊氏」という名の虚像。人々が考えること、そしてそれらが織りなす世の中の「情勢」とは、つくづくわからないものである。

 けれども、その「痛快さ」が、終盤に差し掛かるにつれて、徐々に「痛切さ」へと変化してゆくところが、実は本作のいちばんの読みどころなのかもしれない。尊氏を支え続けてきた2人――直義と師直が、対立し始めるのだ。それは、双方を支持する諸勢力を巻き込みながら、やがて室町幕府の存続を脅かす規模の「内輪もめ」となってゆく。いわゆる「観応の擾乱」だ。相変わらずの「極楽殿」であり、調整力や交渉力も皆無である尊氏は、その「戦い」を止めることができない。しかし、両者のあいだで右往左往しつつも、どこかこれまでとは違う尊氏の微細な「変化」を感じ取った直義は、ある決定的な「結論」に辿り着いてしまうのだった。そのとき、直義の目からハラハラと流れ落ちる涙。それは、果たして何を意味しているのだろうか。

 かくして、「痛快さ」の果てに、「痛切さ」をひしひしと描き出してゆく本作『極楽征夷大将軍』。それは、足利尊氏というひとりの人間――「空っぽ」なのか「水のごとく」なのか、そのあたりの判断は、読む者に委ねられているとしても、ある種の「異端者」ではあったことは、どうやら間違いのない彼の「痛快な物語」であると同時に、そんな「極楽殿」と関わってしまったがゆえに、持ち前の聡明な思考を乱され続け、その「予断」によって最後は自ら窮地に陥ってゆく直義と師直という2人の人物の「痛切な物語」だったのかもしれない。やはり、恐るべきは、「足利尊氏」ということなのだろうか。その興味は、さらに深まるばかりだ。

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