『さよならを教えて』を生んだ鬼才・長岡建蔵が語る、 人気クリエイターに美少女ゲーム出身者が多い理由

 1990年代から2000年代中盤のオタク文化を牽引したのが、美少女ゲームである。その影響力の大きさは、凄まじいものがあった。『Kanon』や『AIR』のように当初は成人向けとして発売された作品が後に京都アニメーションからアニメ化されて一大ブームとなったり、脚本家や原画家の中から国民的ライトノベルに関わるクリエイターが輩出されるに至っている。

 2000年代のライトノベルを代表する『涼宮ハルヒの憂鬱』の挿絵を手掛けたいとうのいぢも、美少女ゲームの原画家であった。『ゼロの使い魔』の作者のヤマグチノボル、挿絵の兎塚エイジもそうだし、『魔法少女まどかマギカ』の脚本家・虚淵玄も美少女ゲーム業界出身だ。麻枝准のように、オリコンのヒットチャートにランクインする曲を生み出した作曲家もいる。こうした事例は枚挙にいとまがない。

 なぜ、美少女ゲーム業界に、後の出版業界を担う優れた才能をもつクリエイターが集っていたのだろうか。興味を抱いた筆者は、関係者にインタビューを試みることにした。

 今回話を聞いたのは、2001年に発売されて以降、今なお熱狂的なファンをもつ『さよならを教えて ~comment te dire adieu~』の、企画、脚本、原画まで手掛けた長岡建蔵である。長岡とともに、当時の美少女ゲーム業界がいったいどのようなものだったのかを詳らかにしてみた。

他にできそうな仕事がなかった

――長岡建蔵先生が、美少女ゲーム業界に入った理由を教えてください。

長岡:他にできそうな仕事がなかったからですね(笑)。高校卒業間近にさる事情で働かなきゃいけなくなったのです。絵を描く仕事をしようと思っていたけれど、今の自分の実力だと、まだ黎明期で玉石混淆の成人向けのゲームの世界に紛れ込むしかないと思って、飛び込んだ感じです。

――それはいつぐらいのことですか。

長岡:1990年くらいで、僕は18歳でした。当時はまだ業界のハードルが低かったんです。高校生の頃から友達の家で同人ゲームを制作(編集部注:未完成に終わったそう)していたので、一通りの作業ができたんですよ。ハッタリ半分で入れていただいた会社(HARD)でそれが重宝されたのか、専門学校に通いながら1990年に出た『はっちゃけあやよさん2』で原画とCGを任されましたね。専門学校は1ヶ月程で行かなくなりましたが。

――若くして制作に関わっているのが凄いですね。黎明期とおっしゃいますが、当時の美少女ゲームの業界はどんな感じだったんですか。

長岡:様々な事情で他の業界でやって行けなかった尖った人たちが集まる場だったと思います。別名、掃きだめですね(笑)。その一方で、フロンティアでもあったのです。とにかく変わった人というか、アクの強い人が多かった印象ですね。当時の僕なんかは若輩者で,他の世界を知らないものですから、大変に衝撃的でした。

――以前、ある原画家に話を聞いたとき、「パソコンで絵を描けることを魅力的に感じて」業界に入ったと言っていました。長岡先生とはずいぶん動機が違いますよね(笑)。

長岡:1990年代の半ば頃からは、この業界を選んで入ってくる人が増えてきたんだと思います。80年代末~90年代前半に、パソコンがいわゆるおたく層で使われる道具になって、Windows95~98のあたりからは世間でも一般的な道具になりました。その前後で来るべくしてきた精鋭が集まって作ったのが『Kanon』ですし、『同級生』や『To Heart』といった作品ですね。優れた作品が出て、話題になって、さらに人が集まって……と、そんな時代でした。

『Kanon』は成人向けゲームとして発売されたが、全年齢向けアニメが制作されて大ヒット。特に、京都アニメーション特有の美麗な作画で描かれるキャラクターと感動的な物語は、世代を超えて支持されている。原画家・樋上いたるによるかわいらしいキャラクターは女性ファンも多く、同人誌即売会では今なおコスプレイヤーを見かける。

ビジュアルアーツにクリエイターが集った理由

――いずれも名作ですね。特にビジュアルアーツ傘下のブランド「Key」から発売された『Kanon』は感動的なストーリーで、後に東映アニメーションや、京都アニメーションからアニメ化された歴史的な名作です。

長岡:“泣きゲー”というジャンルを確立して時代を築きましたからね。

――長岡先生もビジュアルアーツの傘下で、CRAFTWORKを設立しています。『さよならを教えて ~comment te dire adieu~』(以下、『さよ教』)は、ビジュアルアーツの馬場隆博社長から『Kanon』のようなものを作れと言われて制作されたんですよね。

長岡:それは誤解があるのですが、僕が一対一で直接言われたわけではないんです。新年会でビジュアルアーツ傘下のブランドの代表が集まったとき、馬場社長が「『Kanon』のようなものを作れ」と、全員に向けて言ったんですよ。

――それは、『Kanon』のような泣きゲーを作れ、という意味なのでしょうか。

長岡:いえ、今にして思えば、「『Kanon』ぐらい売れるゲームを作れ」というくらいの意味合いだと思います。

――この頃のビジュアルアーツの勢いってすごいですよね。原画家の樋上いたるさん、シナリオから音楽まで手掛ける麻枝准さん、作曲家の折戸伸治さん、さらに『ゼロの使い魔』の挿絵を手掛けた兎塚エイジさんなど、錚々たるクリエイターが結集しています。

長岡:ビジュアルアーツさんのシステムがあの時代にマッチしていたんだと思います。業界が盛り上がっていくのを見て、「ゲームは作りたいけど資金がない」という若者にゲームの制作費を貸してくれるんですからね。基準がゆるゆるだったからか、僕みたいなのにもお金を貸せてしまったという(笑)。ゲームを作りたくてたまらない人たちに頼りにされていたのだと思います。

――まさに、人材を発掘、育成できるシステムです。1本作品を作ればクリエイターは成長しますから。後に様々な業界で活躍するクリエイターが集ったのは必然だと思いました。

長岡:馬場社長の人柄も大きかったと思いますよ。ビジュアルアーツさんには今も感謝しているんです。

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