若者の「させていただく」は大人への配慮? 不特定多数とのコミュニケーションによる言葉の変化

「先日その近くの公園に行かせていただいて……」

 ある日の午後、何気なくつけていたテレビから若い女性の声が聞こえてきて思わず振り返った。

 公園は”行かせていただく”場所だったのか……。どんな公園だったのだろう、管理人さんがいて、了承をえなければ入れなかったのだろうか。彼女は撮影で行って金銭を得たから「させていただいた」のだろうか……。

 そんなことを考えていたら番組が終わっていた。

 「させていただく」をそこかしこで耳にするとは思っていたが、それはサービス業に関わる人の中で便利に使われているだけだと思っていた。だが、今や公共の電波でも当たり前のように「させていただく」が使われ、受け入れられている。正直なところ、40歳を超えた筆者には、「させていただく」が過剰なまでにへりくだって聞こえる。だが、不思議とへりくだり一辺倒ではなく、どことなく気を遣える自分アピールもあるような気もする。

 広く便利に使われているのに、そんなふうに感じるのは筆者に寛容性がないからなのだろうか。しかし、用法としては間違っている……。言葉ひとつで悶々とする日々を送るなかで出会ったのが、椎名美智著『「させていただく」の使い方』(角川新書)だった。

「させていただく」の使い方を教えてくれるわけではない

 『「させていただく」の使い方』は、そのタイトルからは想像できないが、”させていただく”の用法や誤用について書かれた本ではない。筆者はそれを期待して手に取ったのだが、言語学的に、語用論的に解明しようとしたのが本書の目的だ。

 「させていただく」がどのようなシチュエーションで使われ、敬語や謙譲語から読み取る距離感に注目し、その言葉が人にどのように受け入れられるのかを年代別に調査し、最終的に言語を時代の流れに沿って変化する生モノだと考えているのだ。

 興味深いのは、「させていただく」が誤用だとしても、それを”新しい使い方”と捉えて、用法を「採集した」と書いていたこと。まるで新種の昆虫を見つけたかのように新たな使われ方と出会うのを楽しんでいるのだ。

 このスタンスを知って、筆者は自分がかなり意地悪な目線(耳線?)で「させていただく」を見ていたのだと気づかされた。

言葉遣いに敏感な世代と「いたします」と「あげる」

 『「させていただく」の使い方』によると、「させていただく」に違和感を覚えるのは中年層に多いそうだ。社会人として言葉の使い方に敏感になっているからだろう。かくいう筆者も、文章を書くにあたり、正しい用法を調べたり、指摘されたりする中で徐々に「させていただく」に対する違和感と苦手意識が膨らんでいった。

 そして「させていただく」と同じくらい気になっていたのが「いたします」だった。

 同書では次のように書かれている。

例えば、丁重語「いたします」は、もともと自分の行為を謙る言葉でした。ところが、敬意漸減(※)のためにへりくだった自己に焦点が当たり、いつの間にか尊大化し、偉そうに聞こえるようになりました。そして最終的には、「ただいまから、○○年度の卒業式を挙行いたします」などのような、改まった場面でやや厳かに宣言するような場合にしか使われない敬語になってきているのです。

※敬語に含まれている敬意が使われるうちに少しずつすり減っていく現象

 言葉の意味が徐々に変化するのは今に始まったわけではない。例えば、「やる」が粗暴に聞こえるから、「あげる」という、本来なら目上の人に使う言葉が日常的に口にされるようになった。我が家でも、筆者が子どもに対して「やろうか」と言っていたら、家族から「とても乱暴そうに聞こえるから使わないでほしい」と注意された。今では意識的に「〜してあげましょうか」と使っている。正直慣れないが、不快に感じて欲しくないので周囲の感覚に合わせているのだ。

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