宗教2世が自ら「人生のハンドル」を握るためにーー信仰と自由意志を考える

 宗教2世の問題が今、社会でクローズアップされている。現代社会は、これまで宗教2世とはどういう悩みを抱えているのか、ほとんど関心を払ってこなかった。筆者もその1人だ。

 信教の自由は基本的人権に定められている。成人した人間が何を信仰するかは自由である。しかし、子どもの信教の自由をどのように捉えればいいだろうか。家族が信仰しているものを自動的に享受することになりがちな子どもたちは、自由に信教を選んでいるとは言えるだろうか。

 2世たちは社会と家族と信教の狭間で、様々な葛藤を抱えて生きることを余儀なくされている。声を挙げてもなかなか広がらなかった2世の声が、今ようやく広く届きつつある。

 そんなタイミングで刊行された菊池真理子の『「神様」のいる家で育ちました』は、そんな2世の心の内をリアルに描いた作品だ。この作品が問いかけるのは、2世問題と信教の自由にとどまらない。もっと広く深く、人間の自由意志とは何なのかを投げかけている。

親への愛情があるからこそ苦しい

 本書は、自身も2世である菊池氏の体験の他、様々な宗教2世の親子関係を一話完結のオムニバス形式で描いている。

 親子関係については、全てが不幸なものばかりではない。関係を絶たざるをえなかった親子もあれば、最終的には理解しあえる間柄になった親子も登場する。

 どのエピソードの主人公も、物心ついた時から親とともに宗教活動に従事し何もおかしいと感じていなかった時代があり、学校に代表される「外の社会」に接した時、自身の家庭が一般的ではないことに気が付くという体験が描かれる。

 「もちろん、それに幸せを見出し信仰を継承する人もいるけれど、なかには成長するにつれ、意思と関係なく宗教に入れられて、こんな生活してるの自分だけ?・・・」(P5)

と苦しみを感じるようになる。本書で描かれるエピソードはどれも、幼少期の親子関係は悪くないし、親からの愛情もたっぷりと受けている。

 しかし、社会の中で色々な体験を経て成長し、自立する段階になってもなお、信仰にかんして自由を認めない親と衝突することになる。小さい頃にはたっぷりと愛情を注がれていた故に、家族としての愛情が深い分、親は親、自分は自分と簡単には割り切れない。好きだからこそ苦しくなるという側面もあるし、当然子どもの頃から教えられている信仰が頭の中にあり続けるために、天罰を恐れる気持ちがなくなるわけではない。

 本書は、ひとくちに宗教2世といってもその葛藤も親子関係も一律ではないことを教えてくれる。そして親だけでなく、子どもの頃から信じてきたもの、当たり前だと思っていたものに、敵意や差別意識を向けてくる一般社会もまた、彼ら・彼女らを苦しめてきたことがよくわかる内容だ。

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