芦沢央、作家生活10年目の問題意識「今の価値観で過去を断罪することは、なんて傲慢なんだろう」

読者を信じて削らなきゃいけない

――10周年なのでこれまでのこともお聞きしますが、著作リストをみると半分以上が短編集ですね。芦沢さんはベスト・アンソロジーへの作品収録も多いですし、短編の名手という印象がありますが、長編に関しては苦手意識があるんですか。私は、これまでの長編では『カインは言わなかった』(2019年)に感銘を受けました。

芦沢:短編の方が、評価は高いです。自分も短編には目が行き届く感覚があるんですけど、短編だけやっていると狭い世界しか書けなくなって物語の幅が広がらない。でも、長編はだいたい自分の手が届かないところに物語を設定するので、がむしゃらにああでもないこうでもないとやっていくしかない。

『カインは言わなかった』は、自分が出せるものはなにか、1個1個エピソードを絞り出してたぐり寄せた作品で、最後まで制御しきれた感はないんです。娘を亡くしたお父さんの視点が出てきて、彼が奥さんと一緒に復讐の方へ進みそうになる。そこを書いたら編集さんから声のトーンが同じだと言われました。年齢、性別、バックグラウンド、動機が全然違う人たちでも、私のフィルターを通すと声のトーンがみんな一緒になると指摘された。その時は意味がわからなくて、だって違うじゃない、書き分けられているはずだと思いました。

 そこから、考えている内容を変えるだけでなく、言語で考えるかどうか、そうではなく見える情景が変わったり聞こえる音が変わったり、あるいはそういう自分の感情の変化や身体感覚の変化を認識しない人がいたり。いろんな書き方があると学びました。『カインは言わなかった』では、漏水調査をする技師が、どこから漏水しているか、水道管に音聴棒を当てていくと音の変化で場所が見つかる。その情景だけで彼がなにを考えているか一切書かなくたって伝わると学びました。

 長編で学ぶことによって短編にも変化があるし、短編もどこまで削ぎ落せるかなんです。私はやっぱりミステリー脳なので、伏線回収とか、さあ、皆さんお待たせしました、どやっ!(笑)って盛り上がりがちなんですけど、逆に物語から浮いてしまう。自分がこれだと思ったところほど読者を信じて削らなきゃいけないと、『汚れた手をそこで拭かない』(2020年)という短編集で学びました。

 長編と短編で学んだそういうことを『夜の道標』では全部活かせたので、自分でいうのもなんですけど、今回は一段上がった感覚があります。長編って楽しいなと初めて思いました。

――その意味でこれまで節目になった作品は、『カインは言わなかった』、『汚れた手をそこで拭かない』、『夜の道標』ですか。

芦沢:一番売れているのは『悪いものが、来ませんように』(2013年)ですし、こんな作家がいたんだといろんな人に見つけてもらったのは『許されようとは思いません』(2016年)。でも、従来の自分を壊しながら書いたという意味では『カイン』、『汚れた手』ですね。近年の作品ばかりですけど、ここ数年でどう書くかに自覚的になれました。

 同じことを書くのでもどういうアプローチだと伝わりやすいのか。私は、心理描写と身体描写をしがちで、それが読者をつかんできゅっと引きずりこむ力を持っている一方、乗れない人をバーンって強い力で弾いてしまうところもある。それを日本推理作家協会賞の選評で指摘されました。書かなきゃわからないと考えていたけど、書くことでわからなくなることもある。1個の手札で納得させようとするから駄目なんだ。音聴棒の描写のように人物によってどうアプローチするのが一番いいか、書き分けなければいけないと理解しました。

『夜の道標』でも第1稿では阿久津が殺害の時になにを思っていたか、けっこう語っていたんです。そうすると、本人が言っているんだからそうなんだ、なるほどね、とわかりやすい。でも、彼はそれを言語化できる人だろうか。言語化するのは物語の都合、私の都合であって、そうすることによって意味が限定されてしまうし、読者もそれ以上考えなくていい感じになってしまう。もっと違う書き方があるんじゃないか。阿久津と波留の最後の会話のパートなど、時間をかけて直していきました。

――芦沢さんは、小説を書く時、いわゆるプロットは立てないそうですね。

芦沢:(笑)短編も長編もプロットは、ほとんど提出したことがありません。最初の頃は頑張って提出したりもしたんですが、書いていくうちに書きたいことが明確になっていくタイプなので、自分でもよくわからないものを提出して、そこに対していろいろ言われると、なにが書きたいかわからなくなっちゃうんです。だから、長編は今でも、全ボツでもいいのでとりあえず書きます、読んでくださいというやり方。800枚書いて実際、全ボツになり、第2稿も800枚書いて全ボツで2,000枚くらい書き直したこともあります。『いつかの人質』(2015年)という作品です。短編の場合は、私の頭のなかにあって書く必要がないし、それをプロットにするとイメージがしぼんじゃうんです。1回、会話でならイメージを説明できますと編集さんに言ったら「初読の感想を大事にしたいのでなにも話さないでください」と返され、あ、プロットいらないんだ、と(笑)。

――『夜の道標』では絵コンテを描いたそうですが、この作品だからだったんでしょうか。

芦沢:これから毎回、絵コンテを描くかはわからないし、作品に応じてかもしれません。今回は、これだというビビッドなシーンがいくつもあったので、その謎を解いていくやり方で書きましたけど、シーンではなくそれが1つのフレーズということもあるかもしれません。

――この10年間で意識してきた同時代の作家は。

芦沢:何人もいますが、今作の執筆中は特に呉勝浩さんと葉真中顕さんを意識していました。二人とも読みがすごく鋭い人で、彼らと他人の本の話をしていると楽しい。どこが面白くてどこが引っかかるかを言語化するのが上手だし、ハッとするような視点を提示されるので、いつも刺激をもらっています。社会問題に対しての知識も深く、読みを信頼している人たちなので、作品を読まれるのが怖い相手でもあります。今回もドキドキしながらプルーフを送りつけたんですけど(笑)、『夜の道標』について3、4時間いろんな読み方を話してくれて、それを担当編集さんに伝えたら「帯にコメントをもらいましょう」となって。ピンと来なかったら絶対に引き受けない人だと知っているので、コメントをもらえてすごく嬉しかったです。こういう人たちに、芦沢、むかつくなーってくらいの話を書きたい思いはあります(笑)。

――今後、どんな作品を書きたいですか。

芦沢:『夜の道標』の経験で、私長編を書けるようになったのではと思ったんですが、今やっているものは難航しているぞ、おかしいなというところです(笑)。パレスチナの話を書いているんです。私が高校3年生の時(2001年)、アメリカで同時多発テロ事件が起こりました。なぜあんなテロが起きたかわからないから大学は史学科に入り中東史を専攻したんですが、卒業した時にわかったのは、自分は何もわからないということだけでした。それが自分の汚点のように残っていて、この20年間、小説に関係なく論文や専門書を読み続けていました。

 それで、深緑野分さんと戦争小説について喋っていた時に「書いてみたら」と言われ、無理だと思ったんですが、無理だと考えていた将棋小説も将棋教室に通って『神の悪手』(2021年)をなんとか書けたわけです。パレスチナについてもとにかくまずは挑戦してみようと書き始めてみたら、それまで読んでもわからなかった資料がわかるようになってきた。資料では1行ですまされること、ニュースでは取り上げられないような日常にこそ占領の本質があり、トマト1個、キュウリ1本みたいなレベルでの生活というか、そこで生きる人間としてのしんどさみたいなものが、小説の視点人物を通して見えてきたんです。

 読書の方も変化して、作家デビュー以来、同時代の作品を読むことが多かったですが、今はこれまで触れてこなかった翻訳もの、SFを延々と読んでいます。イスラエルの作家とか、目からボロボロ鱗が落ちるというか、とても発見がある。私は10年間で同じことはやらないようにその時々で挑戦したつもりでしたけど、小説にはいろいろなやりかたがあって、こんなに面白いと今さら気づきました。今度の長編は、小説のためというより、私にとってなにかつかまないではいられないテーマなので、どれくらい時間がかかるかわからないですけど、書きたいと思います。本になるのは先ですけど、個人的にはわくわくしています。

■書籍情報
『夜の道標』
芦沢央 著
初版刊行日:2022年8月9日
定価:1815円(10%税込)
出版社:中央公論新社
特設ページ:https://www.chuko.co.jp/special/yorunodouhyou/

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