“悪い人間が正義のために戦う”という藤田和日郎の黄金パターン 『黒博物館 三日月よ、怪物と踊れ』が面白い

メアリー・シェリーが生み出した「怪物」とは何か

 ここから先の展開を書くのはよそう。ただ、最初はその仕事を嫌がっていたメアリーだったが、やがて怪物に心を開くようになり、怪物のほうでも徐々に“人の心”を芽生えさせて――いや、取り戻していく(わずかに、事故で死んだ村娘の記憶は残っているようだ)。そして、メアリーは怪物に「エルシィ」という名をつけてやるのだが、この時、ある意味で怪物は怪物ではなくなったといっていいかもしれない。

 周知のように、『フランケンシュタイン』の怪物には、最後まで名前は与えられない。それはいうまでもなく、世界が、あるいは生みの親が“彼”を拒絶し続けたということの証でもある(これほど悲しいことが他にあるだろうか)。

 それにしても、メアリー・シェリーが生み出した「怪物」とは何か。普通に読み解けば、それは、当時発展しつつあった「科学」への恐れを表現したものだろう。あるいは、フランス革命や産業革命を実現させた見えない力の象徴かもしれない。しかし、その一方で、「怪物=作者」という見方も充分できるのではないだろうか。そう、生命の「創造者」であるフランケンシュタインよりもむしろ、居場所を求めて彷徨(さまよ)い続ける怪物のほうが、メアリー・シェリーその人に近いように私は思う(フランケンシュタインのモデルは、おそらく夫のパーシーだろう)。

 名前のない怪物。行き場のない怪物。そして、人に認めてほしい怪物……。それは、かつて道ならぬ恋に落ち、『フランケンシュタイン』の第3版まで作者名を明かすことのできなかった、「女性作家」メアリー・シェリーの分身であるというふうに考えることはできないだろうか(当時の女性作家は、匿名か、男性的ないし中性的なペンネームをつけて小説を出版する場合が多く、『フランケンシュタイン』も初版と第2版は匿名で刊行された)。

 実際、藤田の漫画でも、メアリーが「女性にふさわしくない行為(=「創作活動」)をする女は『怪物的』だ」といわれる場面や、彼女自身、「(怪物は)私… だもの…」などという場面が出てくるのだが(藤田はさらに、メアリーの周囲の人々の不吉な「死」と「怪物性」を重ね合わせてもいる)、やがて彼女は自分の中の「怪物」と向き合い、それに抗う(もしくは受け入れる)ことになるだろう。だからこそ、いまはもうひとりの赤い靴を履いた怪物とともに歩むことに決めたのだ。

 藤田和日郎といえば、デビュー作の「連絡船奇譚」以来、繰り返し月の下(もと)での魔物と人間の戦いを描いてきた“月の漫画家”であるが、今回のメアリーとエルシィという“強い女”ふたりにも、月光の御加護のあらんことを――。

【参考文献】
『フランケンシュタイン』シェリー/小林章夫訳(光文社古典新訳文庫)
『批評理論入門―「フランケンシュタイン」解剖講義―』廣野由美子(中公新書)
Wikipedia(「ディオダティ荘の怪奇談義」「メアリー・シェリー」のページ)

関連記事