書物という名のウイルス 第11回
自己を環境に似せるミメーシス――ヨーゼフ・ロート『ウクライナ・ロシア紀行』評
疎遠なものを身近なものに変える
アンドレ・ジッドがソ連に「投影」された西側の知識人の夢想を解体したとすれば、ヨーゼフ・ロートは逆に、アメリカにもオーストリア帝国にも似たソ連の諸相を自らに引き写そうとする――それはジャーナリスティックな観察眼に加えて、彼の都市的な俊敏さに裏打ちされていた。本書はウェルズやジッドのような巨匠のルポルタージュにも決してひけをとらない。それどころか、彼らの見落とした風景のディテールが、そこには豊かに息づいていた。
私はここで、アドルノ&ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』に従って、プロジェクション(投影)とミメーシス(模倣)を区別したい。虚偽のプロジェクションが「自己に環境を似せる」ことであるのに対して、ミメーシスは「自己を環境に似せる」ことである。前者は内なる矛盾を外のスクリーンに移しかえ、身近なものに敵の烙印を押す。逆に、後者においては、外の環境が内に入り込み、疎遠なものが身近なものへと変わる。アドルノらの考えでは、プロジェクションが加速する反面、ミメーシスは委縮しており、それが政治的な危機を増大させたのである。
もとより、環境を自己の認識に染め上げるプロジェクションの作用は、なかなか制御しづらい。20世紀の人間たちは、共産主義や反ユダヤ主義のようなイデオロギーの影絵に翻弄されてきた。アドルノらが言うように、資本主義のもたらす矛盾や苦しみがユダヤ人というスクリーンに「投影」されたとき、それは恐るべき反ユダヤ主義となって現れる。前回言及したユダヤ系の作家クリスチャン・ボルタンスキーの作品では、小さなおもちゃや人形が巨大な怪物の影絵となってゆらめくが、そこに反ユダヤ主義の童話的再現を認めることも、あながち不可能ではないだろう。
逆に、ユダヤ人のロートは、まさに「自己を環境に似せる」ミメーシスの能力に富んでいた。ヴォルガ川で地平線の息吹きを浴びながら「広大な大地を目の前にしたとき、人は己の小ささを知るが、同時に慰められもするのである」(49頁)と記すとき、あるいはウクライナの農村を見て「世界は光に満たされ、青い空は遥か彼方で銀色に変わり、まるで地球全体を包み込むかのよう。すべてが澄んでいて、秘密も、曖昧な色も、心配事もありません」(13‐14頁)と形容するとき、ロートは自らに宇宙的な安らぎを引き込んでいる。ロートの紀行文は、疎遠なものを身近なものに変える、その文学的なデモンストレーションなのである。
思えば、オーストリア゠ハンガリー二重帝国への挽歌と呼ぶべきロートの代表作『ラデツキー行進曲』には、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世がロシアとの国境の村を視察し、夜半に「こおろぎ」の声に耳をすませる忘れがたい場面がある(※)。偉大な帝国の君主を、虫の密かな音に対応づけること――それはまさに、コスモポリタンの夢を見ながら各地を旅し、ついにホテルで客死した放浪作家ロートならではの想像力と言えるだろう。ロートの宇宙は、こおろぎのようにささやかである。しかし、彼のミメーシスの文学は、たえず状況に翻弄され続ける21世紀のわれわれにも、知恵と慰めを与えてくれるに違いない。
(※)「フランツ・ヨーゼフ一世は瘦躯の老人で、開いた窓辺に立ち、いつなんどき彼の警護の者たちに不意をつかれるかもしれないと恐れていたのだ。こおろぎが鳴いていた。その歌声は夜のように果てしなく、皇帝の心の中に星々と同様に畏敬の念を呼び覚ました。ときどき皇帝には、星々そのものが歌っているような気がした」(『ラデツキー行進曲』第15章、平田達治訳)。
なお、ブルガリア生まれの政治学者イワン・クラステフは『アフター・ヨーロッパ』の冒頭で、ヨーゼフ・ロートに言及しつつ、ブレクジットに象徴されるEUの危機を、一世紀前のハプスブルク帝国(オーストリア゠ハンガリー二重帝国)の解体と重ねている。「諸国家の共生するヨーロッパ」という寛容のプロジェクトが再び危機を迎える一方、ウクライナが戦場と化した今、ロート再発見の機は熟しているのではないか。