森田真功の平成ヤンキー漫画史【第1回】:平成に取り残された『東京卍リベンジャーズ』

 これを書いている2022年=令和4年の現在、和久井健の『東京卍リベンジャーズ』が売れている。2021年のアニメ版や実写版も成功を収め、コミックスは5000万部を突破したという。もちろん、入り口がアニメ版であったファンあるいはアニメ版しか観ていないファンもいるだろうし、入り口が実写版であったファンあるいは実写版しか観ていないファンだっているだろう。しかし、アニメ版や実写版に多少のアレンジが見られたとしても基本的な点は原作のマンガに準拠していることに変わりはない。基本的な点とは、不良少年が主人公であり、その不良少年がタイムリープをし、自分の運命を変えていく姿が物語の根幹を為していることである。

 物語の幕開けは、2017年である。これは作品の連載そのものの開始が2017年だったことを反映したものであろう。推測に難くない。

 主人公のタケミチ(花垣武道)は、2017年の段階で26歳になっており、レンタルDVD店のアルバイトをしながら、くたびれたアパートで一人暮らしをしている。ある日、犯罪組織として知られる東京卍會の抗争に巻き込まれ、中学生の頃に付き合っていた女性が死んだというニュースを目にするのだけれど、それは今の自分とは関係がない世界の出来事にも感じられるのだった。なぜなら、これまでの彼の人生において全盛期と呼べるほどに輝いていたのは中学2年生の時分であって、その眩しさからは遠ざかったところに現在の決して恵まれてはいない生活が成り立っているためだ。タケミチの主観にとって過去は既に失われたものでしかない。しかし、実際はどうか。タケミチと一切の過去とが完全に切り離されてしまっているわけではないと次第に明かされていく。

 事故を装い、何者かに駅のホームから突き落とされたタケミチは、電車に轢かれ、命を落とす代わりに過去のとある時代へと遡る。それは中学2年生のあの頃であった。

 2005年、中学2年生だった12年前が、もしもタケミチの全盛期であるとするなら、主に二つの条件によって彼の自信が底上げされていたからだと考えられる。一つはいけている不良グループの一員だったことであり、もう一つは異性のかわいらしい恋人がいたことだ。不良だったから偉いとか彼女がいたから偉いとかいう単純な話ではない。踏まえておきたいのは、それが学校や教室のスケールでは十分なステータスとして通用し、タケミチにとっては自己の評価を高く見積もるのに最適な材料となりえていたことである。このとき、当人のパラメーターが優れているか否かは関係がない。作中の描写を見るかぎり、中学2年生だったタケミチは、特に秀でた能力を備えているわけではないのに、校内におけるポジションは決して悪くない。少なくともヒエラルキーの下位にはいない。

 2017年にタケミチが置かれている状況と2005年にタケミチが置かれていた状況とを横に並べ、相対化するなら、全盛期の意味はよりよく見えてくる。

 親しい人間はおらず、リッチでもない。仕事ができないフリーターとして周囲に見なされている26歳のタケミチは、紛れもなくヒエラルキーの下位にいる。この同じ存在でありながらも14歳のタケミチと26歳のタケミチとではヒエラルキーのどこにいるのかに大きな差がついていることこそが問題なのだ。いや、年齢や環境、属しているコミュニティが異なっている以上、両者を同列に扱うのはさすがに無理があるんじゃないかという反論もあるだろう。だが、そんなことはない。むしろ、両者は横に並べられ、同列で語られなければならない。なぜなら『東京卍リベンジャーズ』の主人公にとっては、12年もの歳月が無駄であった。意味がなかったかのように描かれている。厳しくいうなら、2005年から2017年までの間、タケミチは何も成長していないのである。

 たとえば、それは若い頃に成績の上々だったアスリートが、次第に体力的な限界を知ったり、故障をしたり、挫折を味わったりするのとは違う。たとえば、それは若い頃にアイディアの豊富だったアーティストやミュージシャンが、キャリアの途中でインスピレーションを枯らしていってしまい、苦悩したりするのとは違う。若い頃から将来を期待されていたはずの棋士が、年齢制限によって将棋の奨励会や囲碁の院生を辞めなければならなかったのとも違う。また、学校を出て、会社員になり、家庭を持った人間が、自由に使える時間が少なくなったせいで若い頃は良かったと懐かしむのとも違っている。

 容易に想像できると思うが、上述のシチュエーションは、他のフィクションであったなら通過儀礼のごとく現れることが多い。通過儀礼といおうか、次のフェーズへと進むために必要な段取りである。英語にノー・ペイン・ノー・ゲインという言い回しがあるけれど、結局のところ、タケミチは強烈な犠牲を払う代わりに新しい自分を手に入れるというトレードを経ていない。子供の時代にさようならを告げるような局面を踏み越えないまま、成人しているのだ。

 作画の面から明らかだが、26歳になってもまだタケミチの風貌には幼さが残っている。言動にも、単に怠惰なだけではなく、大人になりきれていないイメージがある。ご丁寧にもわざわざ童貞だと自己申告してすらいる。要するに、時間の流れをよそに進歩も変化も何一つ成し遂げていないことをおのずから認識しているのである。この意味で、14歳のタケチミを横に並べ、同列で語ることは決して不自然なわけではない。14歳のタケミチと26歳のタケミチとが同列であったとしたならば、両者はおそらくモラトリアムの一語で包括されうるし、長く引っ張られたモラトリアムの線上で両者を大きく隔てているものがあるとすれば、あらかじめ指摘しておいた通り、ヒエラルキーのどこにいるのかの落差でしかない。

 タケミチにとっては、中学2年生の頃が頂点であり、全盛期である。と同時に、ピークアウトのはじまりでもある。そして、そのきっかけは、ほとんど一個に絞られている。

 2005年、校内ではいけている不良グループの一員であったタケミチは、調子に乗った仲間と一緒に、どうやら自分たちを舐めているらしい校外の不良にケンカを売りにいくのだったが、その校外の不良から完膚なきまでに叩きのめされる。半殺しにされる。ここでタケミチがぶつかっているのは、自分を担ぎ上げてくれるサークルの影響力が及ばない範囲にある脅威であり、自分よりも場数を踏み、実績や権力を上回っている真っ赤な他人である。学校や教室を社会の縮図と喩えることが可能であるなら、そこでいわれている縮図をどれだけ広げようと所詮は社会にほかならない。このようなトートロジーにおいて、14歳のタケミチは社会の壁とはじめて衝突している。そして、敗北し、使い走り(パシリ)にされ、散々な目から逃げ出した以降もうだつが上がらず、ヒエラルキーの位置を落とし続けていく。要するに、輝きを失い、人生が右肩下がりとなってしまうことのターニング・ポイントは、はっきりしているのだ。

 東京卍會、14歳のタケミチを打ちのめしたよその学校のいかつい不良少年たちがそれである。

 2005年の当時は都内にいくつかある暴走族の一つに過ぎなかった東京卍會は、しかし、2017年には巨大な犯罪組織へと成長している。繰り返しになるけれど、タケミチの自信を底上げし、彼にとっての全盛期を全盛期たらしめていた二つの条件のうち、いけている不良グループの一員だというプロフィールは、東京卍會によって直接打ち砕かれた。おそらくはそれが遠因で、もう一つの条件である恋人とも別れてしまった。12年後、その(元)恋人は東京卍會が起こした抗争に巻き込まれて、死ぬ。亡くなった(元)恋人のことはニュースを目にするまで忘れていたかのようであったし、現在の東京卍會とは何の接点もないのだが、結果だけを見るなら、タケミチの人生のピークを象徴する全部が東京卍會に奪われている。

 奪われてしまったものをどうにか挽回しなければならないというのが、フィクションの定石であり、これに倣おうとするのであれば、タケミチはなんらかの形で再び東京卍會と対峙せざるをえない。そして、そのなんらかの形はタイムリープのような大仕掛けによって実現されることとなる。果たして、駅のホームから突き落とされ、命を落とす代わりに中学2年生の頃へと遡ったタケミチは、全盛期であった不良少年の自分を取り戻し、12年後に殺されてしまうかつての恋人、ヒナタ(ヒナ、橘日向)を救うため、東京卍會が巨大な犯罪組織に発展するのを阻止しようとするのであった。

 こうしたあらましは『東京卍リベンジャーズ』のファンからするといちいち説明する必要のないものだろう。だが、原作であるコミックスの1巻、とりわけ連載の1、2話目の段階で作品のコンセプトがおおよそ提示されていることに着目したい。端的にいえば、それはつまり「不良少年」と「タイムリープ」だ。

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