『大怪獣のあとしまつ』ノベライズ版、映画と一味違った魅力とは? 散りばめられた“笑い”の効果

戦略としての笑い

 ただ付言すれば、閣僚たちは別にボケを狙ってこうしたとんちんかんに見える行動をしているわけではなく、少なくとも表面上は、こうした未曾有(この言葉が読めない閣僚はいないと信じたい)の事態になんとか対処しようとはしている。そのため、彼らの言動のベースとなるのはあくまでも緊張感であり、ボケとの緩急が生まれることで、その世界にはより幅が生まれる。たとえば、中盤の「おなら」によって一時的に世界が救われるシーンは、ボケとシリアスの融和のなかでも、とりわけ印象的なものだろう。

 また、笑いはものごとを進める上では、戦略としても機能する。それをよく知っているのは、ほかならぬ内閣を取り仕切る西大立目完(にしおおたちめかん)首相である。

 西大立目は先ほど述べた「銀杏」案の発案者であり、ほかの閣僚に負けないボケを作中では披露する。しかし、同時に比類ない冷静さがあり、みずから道化役を買って出るような言動は、むしろ全体の調和を志向する上での彼の戦略でもあった。

 こうしたバランス感覚が、西大立目がトップの座に立つことができた所以なのだと、本作の終盤では示唆される。「希望の光を諦めようとしない」彼の姿勢に、環境大臣も思わず頭をたれる。

 同時に、ポジティブ思考を保持するためにも、笑いは必要となる。中盤、主人公のひとりである雨音ユキノの兄・ブルースは、死体処理作戦の一環で大けがを負い、集中治療室に運ばれる。兄を連れて行かないで、と今は亡き母に祈るユキノの脳裏には、あたりまえでしょう、私はお父さんと久しぶりの新婚生活を満喫してるんだから、邪魔しないでよね!と頬をふくらませる母の姿が浮かぶ。想像するうちに、ユキノの顔にはいつしか笑いが現れ、その笑いはこれからを生きていく活力へと自然と変化していく。

勝って笑え

 さて、「希望の光」と書いたが、日本の未曾有の危機は、まさにこの「希望の光」によって救われる。「希望の光」の軸となるのは、主人公である特務隊員帯刀アラタ、彼の元恋人であり、環境大臣秘書官をつとめるユキノ、ユキノの夫であり、またアラタの親友でもあった総理秘書官・雨音正彦の3人である。「希望の光」の詳細や3人の活躍については別稿に譲るとして、「大怪獣のあとしまつ」ののちのさらなる「あとしまつ」においては、主役はヒーローや政府要人ではなく、残された一人ひとりである。

 大きな危機が去った後も、日常は続けなければならない。家を失った人、身体に障害を負った人、大切な家族を失った人たちの心痛は計り知れないが、その中でも前を向いて、笑わなければならない。

 勝って笑え。生きるために笑え。筆者は笑いにあふれた『大怪獣のあとしまつ 映画ノベライズ』から、そのようなメッセージを受け取った。

追記:本稿をほぼ書き終えたあとで、映画バージョンの『大怪獣のあとしまつ』を鑑賞した。映画の感想や評価についてはここでは言及を控えるが、映画とノベライズはおもに「笑い」の面でまったく別のものである、とだけは言っておくことにする。

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