新潮社 中瀬ゆかり氏が語る、編集者として追い求めてきたこと「人間というのが永遠のテーマであり、永遠の謎」

 新潮社の名物編集者でありながら、テレビの情報番組にコメンテーターとして出演するなど、多彩に活躍する中瀬ゆかり氏。『新潮45』編集長、『週刊新潮』部長職編集委員などを経て、現在は同社出版部部長を務める。『5時に夢中!』(TOKYO MX)『垣花正 あなたとハッピー! 』(ニッポン放送)などに出演中。そんな中瀬氏に、編集者という職業の奥深い魅力とその楽しさを、自身の貴重な体験とともにたっぷりと語ってもらった。(篠原諄也)

自分へのダメ出しが編集者の原点

中瀬ゆかり氏

––––和歌山県出身の中瀬さんは、お父様の中瀬喜陽さんが郷土史家で南方熊楠研究者だったこともあって、小さい頃から本が好きだったそうですね。

中瀬ゆかり(以下、中瀬):父が研究者をしていて、母も小説が好きだったので、とにかく家のいたるところに本がある環境でした。熊楠をはじめ、柳田國男、折口信夫などの全集がありました。だから小さい頃から絵本を大量に買ってくれて。「ひみつのアッコちゃん」のテクマクマヤコンのコンパクトは「欲しいー!」と叫んでも買ってくれないのに、世界文学全集はポンと買ってくれたんですよ。

 本を読むことは、ご飯を食べたりお風呂に入ったりするのと同じくらい自然なことでした。中学生になると、3つ上の姉の本棚からちょっと背伸びした小説を借りるようになって。吉行淳之介や太宰治、松本清張なんかを読んでいましたね。当時は小説家になりたかったので、ずっと好きだった星新一のショートショート風の作品を書いていました。それを友達に読ませると「すごい!」と言ってくれるんですけど、自分は読書量が多いのでクオリティに厳しくて、「こんなもんじゃダメだ」とわかるんですよ。それで小説家の夢は諦めるんですけど、最初に自分にダメ出しをしたのが、編集者としての原点でした。

––––編集者になろうと思ったきっかけを教えてください。

中瀬:高校時代に小説家のエッセイを読むようになると、よく編集者が出てくるんですよね。作家にインスパイアを与えたとか、一緒に取材に行ったとか。そんな記述が出てくるたびに、作家と伴走する編集者っていいなと思いました。自分の書いてもらいたい世界を作家の人たちの才能によって実現できる。そんな仕事があるんだと。

 それで大学時代に就職活動をするときに、やっぱり昔から読んでいた本の仕事につきたいなと思って。新潮社が京都で一次面接をして関西採用することを友達から教えてもらって、試験を受けたら受かったんです。中高時代から新潮文庫は大好きで、文芸といえば新潮というイメージがありました。

––––1987年の入社と同時に上京したそうですね。入社していかがでしたか? 

中瀬:今と同じ建物なんですけど、古いけど堂々たる威厳があって、さすが老舗出版社は違うなと思いました。特に本館ロビーの壁面彫刻に漢詩やロゼッタ・ストーンやシェイクスピアの言葉など26種類の「人類の文字」が刻まれているのが印象的でした。

 会社で社員が普通に雑談している内容がとにかくハイブローで「かしこっ!」みたいな。今は私が下ネタで汚染させてしまいましたけど(笑)。当時はインテリジェンスがピカピカ輝いていて、息をするだけで頭が良くなりそうな空気があったんです。

 あと、いきなりロビーに安部公房先生がいたり、電話をとったら遠藤周作先生だったり。本をずっと読んできた身としては、こんなスターに囲まれて給料をもらえるなんて、夢みたいな仕事につけたと思いましたね。

––––どのようなお仕事をしていましたか?

中瀬:最初の2年間は出版部で書籍を編集しました。まず、田辺聖子さんや北杜夫さんの本の担当補助をしました。担当の先輩の横で原稿を入稿したり、ゲラに赤字を入れたりして。独り立ちして初めて作家と二人で進めたのは、群ようこさんのエッセイ集『鞄に本だけつめこんで』でしたね。

 その後、「新潮」編集部に三島由紀夫の最後の原稿を取ったことで有名な小島喜久江さんがいらっしゃったんですけど、ちょうど定年で辞められたんです。女性が誰もいなくなったということで、上司から言われて「新潮」を手伝うことになりました。

 当時の「新潮」の編集長は坂本忠雄という超有名な編集長でした。彼とは就職の面接で話したことがありました。私がエンタメ小説の話ばかりするので「君は純文学はどのくらい読んでいるのか」と聞かれたんです。私は「純文学って読んでると眠くなっちゃって」と答えたら、ムッとした顔をされたことがありました。だから私に厳しい点数をつけていたそうで(笑)。

 でも私も「新潮」編集部に入る頃は、ずいぶん読書量も増えていて。三島由紀夫などの純文学も読み漁るようになっていました。それを認めてくれたのか、坂本からは「頑張ってるじゃないか」と可愛がってもらいました。そこから9年間、「新潮」の編集部にいましたね。

––––最初の10年ほどは純文学の分野が主だったのですね。そして1998年に「新潮45」の編集部に異動したそうで。

中瀬:あるとき「新潮45」の石井昂から「お前、ずっと純文学だけをやっていくのか」と聞かれたんです。私はもう「純文学命!」となっていたので「はい、純文学しか考えられません!」と答えました。すると石井が「いや、せっかく編集者になったんだから、いろんなことを学ぶチャンスだ。お前は政治も経済もスポーツも知らない。ほとんど何も知らない。それを知ることは最終的に文学に返ってくるんだよ」と言われて、「新潮45」の編集部に誘われたんですね。でもやっぱり断って「ずっと『新潮』にいます!」と抵抗していたんですけど、最後は会社の人事に逆えず「新潮45」に泣く泣く異動するんですよ。

 でも私の短所でも長所でもあるんですけど、とにかくすぐ馴染むんです。1ヶ月もしたら「『新潮45』素晴らしい!」となっている(笑)。毎回、直属の上司が一番好きになる。「新潮」では「坂本忠雄命!」だったのが、今度は「石井昂命!」となって。それで初めて政治家や財界人に取材に行きはじめました。当時33歳くらいだったんですけど、全然知らない世界だったので、ゼロから新入社員になったような感じでしたね。

––––会社で自分の望まない部署に異動になって悩む人は多いと思います。どうやって馴染むといいでしょう?

中瀬:不満分子みたいな人って、どこに行っても不満を見つけるんだと思うんですよ。どんな場所にだってダメなところはあるから。だけど「人間到る処青山有り」の気持ちで、新しい場所のいいところを探したほうが意味があると思います。

 20代後半の頃、仕事ですごく苦手な先輩がいました。あるとき、その人が喫茶店でひとりでコーヒーを飲んでいたんですけど、その背中がめちゃくちゃ寂しそうだったんです。あ、この人もすごく孤独な人だったんだと思った。私は嫌味やいじわるをいっぱい言われていたので嫌いだったんですけど、もしこの人が亡くなったりしたら私はやっぱり泣くだろうな、と。その孤独に心がものすごく震えました。

 それから、私はあまり人のことを嫌いになるのはやめようと思いました。好きになるのも嫌いになるのも同じエネルギーならば、好きになったほうがいい。裏でネチネチ悪口を言うのはよくないなと思って。もちろんみんなで笑える、本人に聞かれてもOKな悪口は今も大好きなんですけどね。瀬戸内寂聴先生も「人の悪口を話しながらご飯を食べるのはおいしい」と言っていましたね(笑)。でもそれは明るい悪口で、陰湿な陰口は何も生まないと思います。

––––瀬戸内さんはどんな人でしたか?

中瀬:寂聴先生は担当ではなかったんですけど、何度かお会いしました。でも文学論なんかしたことはなくて、大体は噂話をしていましたね。そのなかで「先生なんでそんなに若いんですか?」と聞いたら「私は51歳でセックスを止めたからね。セックスは老けるから」と言う。「私も全然してないので大丈夫です!」と言ったら「いやそれだけでもダメで、誰かにときめきつづけないといけない。私は今でも恋しているわ」と言うんですね。すごくかっこいいなと思って。私はよく「ときめきの素振り」と呼んでるんですけど。いい男がいたら素振りみたいな「シャドーときめき」をするんですよ。そういう訓練をしていないと心の筋肉が固く動かなくなって、物事に感動できないんですよね。小説や映画に深く心を震わせるような体験のことです。そこは寂聴先生のイズムを持っていたいなと思います。

––––編集者の仕事は作家に惚れ込むのは重要ですか?

中瀬:絶対重要です。作家はすごくよく人を見ているので、気づくんですよね。本気で好きにならずに適当なことを言っていると「この人、片手間で自分の担当やってるな」と絶対にバレる。私は惚れ力が高くて、惚れ込んじゃうんですよね。ちょっとした疑似恋愛みたいな感じに陥るというか。毎回、男の人でも女の人でも、作品と人柄の両方に惚れ込む。それはすごく重要なことです。

関連記事