乗代雄介、岸政彦、李琴峰……三島由紀夫賞を受賞するのは? 5月14日発表前にノミネート作品をおさらい
多数の芥川賞受賞作家も輩出している、三島由紀夫賞。「第34回 三島由紀夫賞」にノミネートされた5作品はどのような魅力を持っているのか、それぞれ解説していこうと思う。
・藤原無雨『水と礫』(河出書房新社)
・乗代雄介『旅する練習』(講談社)
・岸政彦『リリアン』(新潮社)
・李琴峰『彼岸花が咲く島』(文藝春秋)
・佐藤厚志『象の皮膚』(新潮社)
藤原無雨の『水と礫』は、第57回文藝賞を受賞している。藤原は、ライトノベル作家としての顔も持つが、穂村弘との対談の中で、文学とライトノベルは別の役割を持つものと述べている。
『水と礫』は、クザーノという人物の物語から始まり、コイーバ、ラモン、ホヨー、ロメオなど、クザーノに関わる人間たちの物語も語られるようになるが、その語りには反復が用いられる。1、2、3と連なる章は、語りが始まるたびに少し時間が巻き戻されてまた、1、2、3と始まる。そうやって読み進めていくうちに、読者は長い歴史の連なりを知ることになるのだ。
クザーノの弟分として登場する甲一の存在は、一見奇妙に思える。甲一は、一定の方向で流れている歴史の中に、あらゆる立ち位置で現れる。ある時は先に旅立ち、ある時は残って見送る。まるで甲一だけが、歴史というものから逃れているように。1つの歴史の中にいるクザーノと、あらゆる歴史を背負っていないように見える甲一。この2人がいることで、『水と礫』は多面的な作品になっているように思われる。
乗代雄介の『旅する練習』は、第164回芥川龍之介賞の候補作にもなった。今作の特徴は、ノミネートされた5作品の中で唯一、コロナ禍を描いているということが挙げられる。
小説家のおじである「私」と姪の亜美は、鹿島アントラーズの本拠地である茨城県鹿嶋市へ、試合観戦も兼ねた旅に出る予定を立てていた。ところが、すべての計画が狂うことになる。新型コロナウイルスの感染拡大である。休校措置が出て、卒業式もなくなった亜美を思いやってか、「私」は徒歩で鹿島を目指すことを提案する。全国的に休校措置が出たのが、2月末であり、作中にはトイレットペーパーが不足している様子が描かれている。読者も、だいたいあの頃か、と思い出すことができるだろう。
旅の中で「私」が書き物をしている様子は、まるでデッサンをしているように見える。そんな「私」を待つ間、亜美はリフティングに励んでいる。まさしく『旅する練習』なのである。そんな旅に付き物なのが出会いと別れだが、今作の中でもあらゆる形で描かれている。「私」と亜美もとある形で別れることとなる。コロナ禍の旅でだからこそ、より濃く浮かび上がってくるものもあるのだと思わされた。
『リリアン』がノミネートされた、社会学者である岸政彦は、2017年に『ビニール傘』、2019年に『図書室』でも三島由紀夫賞候補になっている。
『リリアン』は、大阪を舞台に、音楽で「飯が食え」てしまっている「俺」と、「俺」が好きなバーで働く美沙さんを中心に物語が構成されている。今作の1つの特徴として、会話文の表記が挙げられる。「俺」が周りの音楽仲間たちと会話をするときは、「」がつけられているが、美沙さんと会話をするときは、「」がなく、シームレスに会話が繰り広げられる。何気ない会話の連なりは、互いの言葉を編み込んでいくように感じる。さらに、彼らの言葉は、打ち寄せる波のように、繰り返し風景の中に挟み込まれていく。
「俺」と美沙さんに共通して感じられることは、秘められた寂寞さである。音楽で「飯が食え」てしまっているが、自分自身の限界を感じ、音楽から離れようとしている「俺」と、娘を水の事故(あるいは事件)で亡くした過去を持つ美沙さん。各々の事情を抱えながら生きてきた2人は、丁寧に交流を深めていくが、言葉の端々からうら寂しさが見える。その寂しさは、まるで人気のない海のように思えるが、それは、作品の冒頭に描かれているシュノーケルの場面が作用しているのであろう。その漂う寂しさを悪しきものとせず、寂しさを寂しさのまま肯定しているのが『リリアン』という作品の持つある種の優しさではないだろうか。