「百合小説」ブームが問う、セクシャリティの現実と虚構 なぜ「女と女」の物語を求めるのか?

宮田眞砂『夢の国から目覚めても』(星海社FICTIONS)

 このコラムではもう一つ、最新の百合小説を取り上げたい。今年3月に刊行された宮田眞砂の『夢の国から目覚めても』(星海社FICTIONS)は、百合というジャンルの創作と消費をめぐる、美しくも真摯な小説だ。

 作者は「天体の回転について」で第2回百合文芸小説コンテストでpixiv賞を受賞し、pixiv発表の同名小説を改稿した『夢の国から目覚めても』でデビューした作家である。

 百合同人漫画サークル「ゆゆゆり」でコンビを組む有希と由香は、相方として3年もの間一緒に同人誌を作ってきた。レズビアンの有希は、異性愛者で彼氏持ちの由香に想いを寄せているが、自らのセクシャリティも「好き」という言葉も打ち明けられずにいる。

 2人の周囲には、男女を問わず百合を愛好し、二次創作に情熱を燃やす同人作家たちが集っていた。女の子同士の恋愛をファンタジーとして消費する世界のなかで、自らの「好き」を言い出せない有希は、百合の二次創作に自らの夢や憧れ、そして願いを託す。だがある出来事をきっかけに、有希と由香の関係性に決定的な変化が訪れた。

 物語の前半では有希が相方の由香に思いを伝えられずに懊悩する姿が、そして後半では一線を超えた2人の関係性と変化が、由香の視点から語られていく。詩的なイメージにあふれたフレーズが、静かな星のように世界と照らす『夢の国から目覚めても』。

 作者の個性である文体はなんとも魅力的で、一方でそのきらめく言葉は、我々に切実な問いを投げかける。現実のセクシュアリティと、フィクションとしての百合の関係に鈍感になってはいないだろうか。自分とは異なる性的指向を、創作という形で「消費」していないだろうか、と。「――百合って、誰のためのものなんだろう」というセリフや、数々のエピソードは、まさにこれらの本を読んでいる私たち自身の振る舞いついても考えさせられるものだ。女性かつヘテロセクシャルである筆者は、とりわけ由香の姿やスタンスが心に響いた。

 「女の子が、ただ女の子だというだけで肯定される。だれかに容姿や性格をジャッジされたり、だれかのものになったりするのではなく、ただ女の子自身のままでいられる」から百合を描くという由香の言葉は、私自身が物語に求める要素を再確認させてくれるものだった。社会人として働く由香は、日々クライアントの要求や社会的な規範と向き合い、そのなかで戦い続けている。彼女の心理描写に共感する社会人女性は、きっと少なくないだろう。

 また、百合の二次創作がモチーフとなっているため、物語には同人即売会やイベントの打ち上げがたびたび登場する。それらは創作にまつわる諸々を愛好する者にとっては、ごく親しみのある日常風景である。しかしコロナ禍の現在、それらの「日常」ははるか遠くにある。当たり前を取り戻す見込みさえ不確かな現在だからこそ、こうしたイベントの描写はやたらとまぶしく尊いものに感じられ、そのこと自体が切なく思えた。百合の世界は今もなお広がり続けている。「女と女」の物語を、これからも追いかけていきたい。

■嵯峨景子
1979年、北海道生まれ。フリーライター、書評家。出版文化を中心に取材や調査・執筆を手がける。著書に『氷室冴子とその時代』や『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』、編著に『大人だって読みたい!少女小説ガイド』など。Twitter:@k_saga

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