会社員の〈私〉は窓から身を乗り出して……津村記久子『サキの忘れ物』で発揮された作家性

 喫茶店を舞台にした作品が本書には2篇収録されているが、やはり物語の色合いは随分と異なる。「喫茶店の周波数」では、閉店2日前の紅茶専門店で店員にしつこく絡む迷惑客と、隣の席で〈最後までここはいい店だ〉と感慨に浸りたい常連客の〈私〉による、間接的な攻防が繰り広げられる。迷惑客を気にしないように、過去にこの店で遭遇したもっと酷い客を思い出して、あれよりはましだと考える〈私〉。ところが迷惑客はそれを上回る面倒さを発揮するから、〈私〉はまた注目してしまい、気をそらそうと店での別の記憶を呼び起こして対抗するのだが……。

 一方、表題作「サキの忘れ物」は、喫茶店で「読書」をめぐる物語が展開される。病院に併設されている喫茶店の店員・千春には、気になる〈女の人〉がいた。その人は18歳の千春から見て、おそらく母親と祖母の間くらいの年齢で、毎日のように来店してはしばらく本を読んで帰っていった。彼女がある日、文庫本を置き忘れたまま店を出てしまう。表紙を覗くと、忘れ物は「サキ」という外国の作家が書いた短篇集だった。

 サキはビルマで生まれたらしいけれど、ビルマってどんな国なのだろう?〈ビルマが民主化してミャンマーになったんだよ〉〈どこにあるんですか?〉〈東南アジアだよ〉。千春の問いに、仕事のこと以外滅多に話さなかった店長の谷中さんが答えてくれる。本を取りに来た〈女の人〉に返却した後、本屋で同じサキの文庫本を買って読んでみる。何にもおもしろくないからという漠然とした理由で高校を中退した千春は、〈おもしろいかつまらないかをなんとか自分でわかるようになりたい〉と思ったのだ。夢中になれるものなんてなかったし、自分のやることに意味なんてないから、何をやっても誰にもまともに取り合ってもらえない。そう信じてきた千春のないもの尽くしの人生は、一冊の本によって少しずつ変わろうとしていく。

 どちらの短篇も迷惑客がギャフンと言わされるわけでも、千春がサクセスストーリーを歩むわけでもなく、わかりやすいハッピーエンドでは終わらない。それでも消化不良とは感じない。物語を通じて、書かれてはいない登場人物の前向きな「その後」を想像できるようになるからだ。本書を読んでいると、自分の人生もいい方向に変わりそうな気がしてくる。

■藤井勉
1983年生まれ。「エキサイトレビュー」などで、文芸・ノンフィクション・音楽を中心に新刊書籍の書評を執筆。共著に『村上春樹を音楽で読み解く』(日本文芸社)、『村上春樹の100曲』(立東舎)。Twitter:@kawaibuchou

■書籍情報
『サキの忘れ物』
著者:津村記久子
出版社:新潮社
価格:本体1,400円+税
https://www.shinchosha.co.jp/book/331982/

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