AI手塚治虫やAI美空ひばりはなぜ議論を呼ぶ? AIによる創作の問題点を考える

 2019年末のAI美空ひばりと2020年初のAI手塚治虫によってAIを使った創作についての注目が高まっている。どんな論点があるのか、なぜ人々を刺激するのかについて改めて少し整理してみよう。

AI創作にはどんなものがあるか

 まずそもそもどんなものがあるのかを見ていきたい。

 AI手塚治虫。改めてになるが、AI手塚治虫プロジェクトはこういうものだ。

 手塚治虫の絵を大量に学習して生まれた新規のキャラクターの顔を主人公「ぱいどん」の顔として使う。それから、手塚治虫のマンガを文字(小説)にして小説の展開を13個の構造に分けた(物語の始まりから終わりまでを13フェイズに分けるという物語論/脚本メソッドで用いられているものにあてはめた)ものからプロットを同様に生成させた130本のプロットから人間が選定してネームを作成。プロットの肉付けやネーム作業(コマ割り)、ぱいどん以外のキャラクターデザイン、そして作画など多くの部分では、手塚眞をはじめ、たくさんの人間が関わって制作されている。「AI手塚治虫」はキャラクターの顔づくりとプロットのネタ出しにしか貢献していない。

 AI美空ひばり。こちらは美空ひばりの歌のデータを元につくられた合成音声である。本質的にはボーカロイドと同じようなものだ。ただし、生前の美空ひばりが歌っていなかった新しい歌を歌わせ、言っていなかった言葉を語らせたことで物議を醸した。

 音楽ではほかにも「人工知能DJ」は2010年代なかばからライゾマティクスの真鍋大度とQOSMOの徳井直生がDJイベント「2045」で起用していた。また、曲のデータを大量に食わせて自動生成させるとか、ヒット曲の特徴を分析するとかいったことにはすでにあたり前に行われている。

 AIアートもある。代表的なものは、2018年10月25日、パリを拠点とするアーティスト集団ObviousがAIを用いて制作した絵画"Portrait of Edmond Belamy"。これはオークションに出品され、最終的な落札価格が43万2500ドル(約4800万円)になった。

 ちなみにこの作品をつくるのと同じGAN(敵対的生成ネットワーク)という技術を使って、今では著名人の顔と既存のポルノ動画を合成したディープフェイク・ポルノなどが作られている。

 ほかにもAIを使ったアート作品はたくさんあるが、2018年には高い注目を集めたが早くも陳腐化しており、新しい「ツール」として使われているにすぎない。

 いまのAIにできることは、ざっくり言うと、元になるデータを食って特徴を抽出してそれと似たようなものを作ることだけだ。「創作」といってもそのくらいのことしかできないし、ストーリーを作ることはできないし、人間のように意図やコンセプトを持って何かを作ることもできない。

 ではなぜそんな程度のものが騒がれているのか?

受け手の心情的な問題

 そんな程度のものだから騒がれている、というのが現状ではないかと思う。

 受け手の心情的な問題から見ていこう。

1)この程度のレベルで「手塚治虫」や「美空ひばり」を名乗るな

 AI手塚治虫は顔とプロットの断片(設定や展開の組み合わせの断片)を作っただけで「これで『AI手塚治虫』とか名乗っちゃうの?」「本物の手塚治虫とはレベルが違いすぎる」というのが反発の代表的な意見だろう。

 AI美空ひばりは前述のとおり本質的にはボーカロイドを使った歌であり(ヤマハの歌声合成技術「VOCALOID:AI」が用いられている)、映像もボカロのライブのように3DCGで作った映像でしかない。それを「AI美空ひばり」と形容してしまったので問題になった。

 これまでもボカロにはGACKTの声から作った「がくっぽいど」などがあったわけだから「美空ひばろいど」とかにしておけば「意外と似てるじゃん」くらいの穏当な評価に落ち着いたと思われるが、ものものしく「AI美空ひばり」などと形容し、さらには生前の美空ひばりがしゃべってもいないことをしゃべらせた(ディープフェイク)ことから、生前の美空ひばりを知る世代からの反発を招いた。

 これは「AI誰々」というネーミングの問題だろう。AI手塚治虫、AI美空ひばりなどと言うと、AIをよく知らない(物語に出てくるAIやロボットくらいしか知らない)人ほど、あたかも人格を持ったコピー(本物の生き写し)みたいなものをイメージしてしまう。

 期待値を良い意味で下げる呼び方にしておけばよかったと個人的には思う。

2)「クリエイティブな行為は人間にしかできない」という信念を刺激する

 心理的な反発の原因としては、大前提として、「AIにクリエイティブな作業はできない」なるクリシェがあるせいで、そもそも創作のような人間的な行為に踏み込んでくれるな、というものがある。

 現状のAIでは本当の意味で作品を勝手に生み出すことはできない。人間がさまざまな条件を指定して、ツールとして使って作品をつくらせているにすぎない。たしかにAIを使ったアートにしろ音楽にしろ、人力だけではつくりえないものが生まれてはいる。だが結局、作品のコンセプトを作るのも、AIにどんなデータを食わせて学習させるのかを決めるのも、アウトプットされた作品を評価するのも人間である。

 そういう意味ではクリエイティブなことはできないといえばできない。

 しかし、囲碁やチェス、将棋ではもはや人間は人工知能に勝てなくなっている。人間がする知的作業においてAIの方が優れている(勝率の高い打ち手を考えることができる)という意味では、人間には生み出し得なかったクリエイティブな打ち手、戦術を編み出したとも言える。

 むろんこれは「クリエイティブ」をどう定義するか、誰がそれを判断するかによって変わってくる話ではある。

 過去のデータを大量に学習し、パターン認識が超絶得意なAIだからこそ「人間には生み出せない何かを生み出せる」「人間が気づけなかったことを発見する」ことは普通にある。

 そういう意味ではAI(を用いたもの)ならではのすばらしい創作物は絶対に生まれないとまでは言えない。

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