高橋源一郎、YouTubeチャンネル開設に寄せて 各年代の代表作で辿る、作家としての変遷

2000年代『日本文学盛衰史』『私生活』

『日本文学盛衰史』(講談社文庫)

 21世紀の最初の年、2001年に高橋は『日本文学盛衰史』を発表。何やら大仰なタイトルだが、全体を統一する物語はなく、25の章から構成された本作は、まるでストリーミングサービスのトラックリストを聴いているかのようにスルスルと読めてしまう。登場するのは、石川啄木、二葉亭四迷、田山花袋、夏目漱石といった文豪たち。彼らが遺した作品と彼ら自身の人生エピソードを融合させながら、フィクションとノンフィクションの境界線、そして、時間の流れを自由に行き来しながら展開する本作の根底にあるのは「日本の文学史において、もっとも面白く、もっとも刺激的な“作品”とは、作家自身であり、文学史そのものなのではないか?」というテーマだ。

 その後も、石神井公演あたりを舞台に現実とバーチャルが侵食し合う世界を描いた『ゴヂラ』、森鴎外と樋口一葉の不倫騒動を中心に、漱石、啄木、タカハシゲンイチロウなどが、くんずほぐれつ物語を展開していく『官能小説家』、宮沢賢治の作品をモチーフにした『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』などを次々と発表。90年代の停滞が嘘のように、意欲的な作品を生み出していく。その軸にあったのは、実存した(する)人物を時間、空間を自在に変化させながら、フィクションとノンフィクションの壁を崩そうとする試みだ。

 2004年に上梓した『私生活』は、1999年から2003年までの生活を綴ったエッセイ集だが、この作品でも高橋は、どこまでが本当でどこまでが創作なのかわからない世界を描き出している。本の帯には「これを書いている間、二度結婚し、二度離婚した。死ぬかと思った。」と書かれており、これは本当のことだが、読んでいるうちに「まるで小説のようだ」という思いが強まっていくのだ。『日本文学盛衰史』をはじめとする、明治、大正、昭和の作家と向き合い、対話し、それを新しい小説に結びつけてきた高橋は、ついに自分自身を作品にしてしまったのだと思う。あと、単純に「この人、なんでこんなにモテんだろ」と羨ましくもある。

2010年代『さよならクリストファー・ロビン』

『さよならクリストファー・ロビン』(新潮社)

 2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件は、とてつもなく大きな衝撃を世界中に与えた。「悪とは何か?」「正義とは何か?」「宗教や経済格差などによって分断が進み、憎悪の連鎖が続くなか、21世紀の人間はどう生きるべきか?」といったことから(無関心を装うことはできても)逃れられる人間はいないし、それは当然、すべての表現者に「これから何を表現すべきか?」という課題を与えた。

 常に時代と向き合い、小説という表現をアップデートさせてきた高橋ももちろん、21世紀の世界と対峙しながら作品を提示し続けている。小説でいえば『「悪」と戦う』『恋する原発』『さよならクリストファー・ロビン』はいずれも、9・11そして2011年3月11日の東日本大震災を受けて書かれたものだ。個人的にもっとも心に残っているのは、『さよならクリストファー・ロビン』。9・11によって大きく歪められた(あるいは隠れていたものが露わになった)世界観、そして、3・11によって壊されたものに対し、作家としていち早く反応しながら、この先長きに渡って人々の心によりそえる言葉をどう紡ぎ出すか? その答えこそが、言葉を持たないキャラクターを軸にした『さよならクリストファー・ロビン』なのだ。

 同時に高橋は、批評的な活動にも力を入れた。『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』(2012年)、『国民のコトバ』(2013年)などの評論集は、『さよならクリストファー・ロビン』と同様、“変遷していく世界にいち早く反応した言葉”と“複雑な世界を簡易化せず、そのまま受け止めようとする言葉”の間で揺れ、ときに引き裂かれながら。その白眉と言えるのが、新書『ぼくらの民主主義なんだぜ』(2014年)。朝日新聞で2011年4月から2015年3月まで連載された「論壇時評」に加筆したこの本には、震災以降の出来事とそのなかにある様々な問題——原発の問題、特定秘密保護法、ヘイトスピーチ、表現の自由——を冷徹に見つめてきた高橋の行動と思考の軌跡が刻まれている。あらゆる場所でシステムが立ち行かなくなった現在において、考えること、行動することの意義を根本から問う作品だと思う。

■森朋之
音楽ライター。J-POPを中心に幅広いジャンルでインタビュー、執筆を行っている。主な寄稿先に『Real Sound』『音楽ナタリー』『オリコン』『Mikiki』など。

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