THE ALFEE「日本のメジャーの音楽シーンでは僕らは早すぎた」 50年の歩みと新たなシングルが示す現在地

THE ALFEE、50年の歩みと現在地を語る

 今年の8月25日でデビュー50周年を迎えるTHE ALFEEから、新たなシングル『KO. DA. MA. / ロマンスが舞い降りて来た夜』が届いた。ほかにもトリビュートアルバム『五十年祭』、デビュー50周年記念ベスト『THE ALFEE 50 SONGS 1974-1996』のリリースとまさにお祭りイヤーな3人。ライブの通算本数は、2900本を超え、3000本に迫る勢いである。3人で止まらずに歩んできた50年という長い時間を経て今何を思い、そしてなぜ新たなロックを提示することができるのか、じっくりと話を聞いた。(編集部)

いろんなことをやり続けて、気づいたら50年経ってました(桜井)

ーー「メリーアン」(1983年)のリリースは僕が小学6年生の時のことなんですが、お茶の間を通じてこの曲に触れる機会が多かったことを考えると、僕らの世代がハードロック的な音楽と最初に触れるきっかけとして大きな役割を果たした一曲だと思っていて。

坂崎幸之助(以下、坂崎):そう言われると、ハードロックをお茶の間に広めたのは、もしかしたらTHE ALFEEなのかもしれないね。

高見沢俊彦(以下、高見沢):当時、僕らの先輩方はテレビに出ないことが当たり前でしたからね。でも、僕らは逆に「皆が出ないんだったら出よう!」という考え方だったんです。

ーーそんな「メリーアン」からもすでに41年が経ち、今年の8月でTHE ALFEEはデビュー50周年という大きな節目を迎えます。メンバーの脱退や加入、活動休止など一切なく50年続けることって、特にサイクルの早い日本の音楽シーンでは稀なことですし、傍目からは相当な苦労もあったんじゃないかと思うんです。

高見沢:僕ら自身は続けることがごく自然なことだったので、まったく無理はしていなくて。周りの人たちからはよく「大変だったんじゃない?」って言われますけど、3人でツアーをやることが普通の出来事で、僕たちにとっては日常のことでしたから。嫌なことは続けられないじゃないですか。自分たちを表現できるステージを続けていこうという意思は3人一緒だったので、そういう意味では大変ではなかったですね。

桜井賢(以下、桜井):僕は、いろんなことをやり続けて、気づいたら50年経ってました(笑)。

坂崎:いろいろなことをやったよね(笑)。

桜井:だって、アート・ガーファンクルが好きでコピーバンドをやっていた人間が、デビューから何年かしたら、今(筆者が)着ていらっしゃる(Judas Priestの)ライブにも行くようになって。

高見沢:3人で行きましたよ、武道館のライブに。

桜井:で、気づいたら鋲(スタッズ)が付いたリストバンドをして歌うようになって(笑)。

高見沢:すごかったよね、あの頃はジャラジャラしていて。

坂崎:「メリーアン」の頃からだっけ?

桜井:いや、「星空のディスタンス」(1984年)の頃からかな。日本であの格好をしてテレビに出る人がいなかったので、当時は白い目で見られていたけど、そうこうしていたら聖飢魔IIが出てきて、そうしたらみんな何とも思わなくなって。日本のメジャーの音楽シーンでは、僕らは早すぎたよね。

高見沢:たしかに早すぎたのかもしれないよな。

ひとりだと50年もできる自信は僕にはない(高見沢)

ーーそういえば、今話題に上がったJudas Priestも今年デビュー50周年ですよね。

坂崎:Queen(1973年デビュー)も1年しか変わらないよね。同期となると、KISSが一緒?

ーーそうですね。海外だとABBAやRush、国内だと甲斐バンドや四人囃子といったアーティストもデビュー50周年のようです。

坂崎:そうか、『一触即発』(四人囃子の1stアルバム)が50年前なんだ。ただ、休むことなく50年続けているのは僕らだけなんですよね。そこは強く訴えておいてください(笑)。

高見沢:でもひとりじゃ続けられなかったよね。ひとりだと50年もできる自信は、僕にはないです。

坂崎:それはこの3人ともね。もちろん、大変なこともその都度ありましたよ。特に80年代の野外コンサートでは、毎回いろんなことがあったし。

高見沢:豪雨に見舞われたりね。

桜井:最初にやる予定だった厚木の米軍基地がダメになって、代替地を探さなきゃいけなくなったこともありました。

高見沢:あと、ニューヨークでライブをやった時は移動式照明が動かなくなって、そのまま歌ったりもしたね。

桜井:「なんとかできないのか?」って現地のスタッフに言っても、「止まったものはしょうがない」で終わり(笑)。

坂崎:稲毛海浜公園でのイベントでは、台風の影響でかなりの強風で。正面からその風を受けながらのライブだったので、倒れそうになりました。雨よりもキツかったんですよ。

桜井:特にアコースティックギターはサウンドホールが空いてるから、そこに風が吹き込んできて。坂崎なんてその影響をモロに受けながら演奏してたからね。

坂崎:そうそう。しかも、花火とかの特効も使えなくて、唯一使えたのが銀テープ。それを客席に向けてバーン!と撃っても、強風で撃った瞬間すぐこっちに戻ってきちゃって(笑)。

桜井:それが会場周辺の電線に引っ掛かり停電になってしまって。信号機が止まったりして、ご迷惑をおかけしてしまいました。次の日の新聞に載っちゃいましたから。

高見沢:そんなエピソードは山ほどありますけど、今振り返ると全部苦ではないんですよ(笑)。

桜井:当時、あの規模感での野外ライブをやっている人たちもほとんどいなかったし、そういう意味ではパイオニアだったかもしれないね。

坂崎:今でこそ何万人規模の野外フェスは普通になりましたけど、80年代や90年代初頭はほとんどなかったですし。

高見沢:僕らは誰もやったことのない規模の野外コンサートを、誰もやったことのない場所でやることを目指していましたから。

坂崎:当時は今のお台場とかみなとみらいに、そういうことができる広い場所があった。今や、僕らがライブをやったところにマンションがガンガン立っているし。

高見沢:そういうことをやりながら昭和、平成、令和と3つの時代を駆け抜けてきた。そう考えたらある意味、日本史だよねえ。

ーーしかも、THE ALFEEは昨年12月には日本武道館公演100回目を突破(現在101回。2024年末には新たに2公演を予定)。国内アーティストでもまだ矢沢永吉さん(153回)と松田聖子さん(127回/ともに2024年7月末現在)のみという偉業を、バンドとして初めて達成させました。

坂崎:エリック・クラプトンとちょうど一緒くらい(102回)だよね。

高見沢:1983年からほぼ毎年やってきましたからね。

桜井:クリスマスの思い出って言われると武道館しかない(笑)。

坂崎:今年も年末に予定されていますが、こうしてずっとステージに立ち続けられるのもファンの皆さんのサポートあってこそ。THE ALFEEのお客さんは本当に素晴らしくて、ツアーも50周年も盛り上げなきゃいけないみたいな使命感があるんでしょうね。春ツアーは各地ソールドアウトでしたから。

ーーお客さんの年齢層も年々広がっているんでしょうか。

桜井:確実に。ライブで毎回「初めて来た人?」って聞いているけど、高校生/大学生ぐらいの若い人もいますから。

坂崎:もちろん親からの影響もあるんでしょうけど、それとはまったく関係なく、コロナ禍でYouTubeとか、高見沢の天然力爆発の料理を見た人もいたり(笑)、そういうこともきっかけになっているんでしょうね。

桜井:そこが入り口になるのがすごいよね。

坂崎:音楽から入る人もいれば、バラエティから入った人もいる。そういう間口の広さもTHE ALFEEの武器ですよね。

桜井:でも、無理してやってきたことはひとつもないんです。昔はテレビの仕事というとコントでしたからね。やすきよ(横山やすし・西川きよし)さんとコントをやったことがあるぐらいですから。

坂崎:タモリさんともレギュラーでやってましたし。

高見沢:『のってシーベンチャー』(テレビ朝日系/1980年放送)、やってたねえ。

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