Lucky Kilimanjaro 熊木幸丸、「Burning Friday Night」のバズで感じた手応え ステージで追求する“心で躍る”ダンスミュージック

 2015年にリリースされた、6人組バンド・Lucky Kilimanjaroの「Burning Friday Night」。目下TikTokを中心に大いに世間の耳目を集めており、YouTubeやSpotifyではそれぞれ1000万再生数を越えている。2024年には活動を開始してから10周年を迎えるが、彼らはデビュー当時からひたすらにダンスミュージックを追求してきた。オーセンティックな4つ打ちだけでなく、ドラムンベースやガラージ、2ステップなど、その音楽性はオルタナティブなニュアンスも包含する。

 様々なキャラクターを持つダンスミュージックは、バンドの規模が拡大した今もなお進化し続けている。今年の4月にリリースされた『Kimochy Season』では踊ることの楽しさを追求する一方で、個々人の内省にまで踏み込んだ。そこで鳴っているのは享楽的なハウスであり、カッティングエッジなガラージ、あるいは心温まるエレクトロである。それぞれの楽曲はシンプルな構造だが、その奥には豊潤なサウンドスケープが広がっている。

 そして7月26日、最新シングルとして「後光/でんでん」がリリースされた。いずれも4つ打ちのダンスチューンだが、一聴しただけではジャンルで分けるのが困難な内容である。バンドのフロントマンである熊木幸丸は、それが“計画されたもの”だと語る。今回のインタビューでは、その真意と、不明瞭なものがダンスミュージックにどのように影響するのかが語られた。

 表層的な「歌って踊る」を越えた、概念的な踊れる音楽。その神髄がここにーー。(Yuki Kawasaki)

ある種のチャラさは今の世界を楽しむためにも必要

ーーローカルな日本語の語感を楽曲に落とし込む手法が、『DAILY BOP』の「太陽」あたりから顕著になっているように感じます。それが「後光」や「でんでん」にも引き継がれているような印象を受けますが、まずはそういった歌詞の部分からお聞きしたいです。

熊木幸丸(以下、熊木): 日本語の独特なニュアンスをどうダンスミュージックとして表現するか? という考えで作ったのが「太陽」で、そのときはそういった言葉遣いはまだ挑戦的な向きがあったんですけど、このラインでみんなと踊るのは楽しいなと思えるようになってきました。少し前だと「踊りの合図」(アルバム『TOUGH PLAY』に収録)でもそういう表現を実践していて、それが「後光」や「でんでん」にも続いています。

Lucky Kilimanjaro「でんでん」

ーー〈くたびれたスタンスミス〉(『ひとりの夜を抜け』より)のように、ラッキリの歌詞には具体的なモチーフが使われるケースが多いですが、今回の2曲にはそれがありません。

熊木:『Kimochy Season』くらいから、情報量を増やさないようにしようとは思っています。自分から色々言い過ぎないようにして、リスナーやオーディエンスから見える世界を広げたいという意図があります。『Kimochy Season』収録曲だと、「辻」という曲の中でそういうことを表現しています。自分の中で、よりシンプルなものでいかに面白く伝えるかというのが、音楽をやる上で課題でもあり面白い部分でもあるんです。最近の歌詞におけるモチーフの少なさは、そこに挑戦した結果なのかなと。そういう意味では『HUG』とか『!magination』の時とはまた違った表現になってきています。今の僕の感覚ではどっちも面白いと感じています。

ーー熊木さんはこれまでのインタビューでもオーディエンスやリスナーに対する向き合い方に度々言及されていますが、人々の多様性に対応しようとした結果、今の表現に辿り着いた可能性はありますか?

熊木:あると思います。やはりお客さんが増えていく中で、僕が「こう思ってる」というアーティスト的な側面だけではなく、オーディエンスと一緒にひとつの場を作りたいという気持ちが強くなってきて。ある種の文化を作り上げるというか、そういう思いが膨らんでいくうちに、よりシンプルな形でコミュニケーションを取っていきたいと考えるようになりました。Lucky Kilimanjaroの曲が増えるにつれて、それぞれの楽曲がどんどんモジュール化しているイメージがあるんですよね。そのひとつひとつはシンプルにして、役割をちゃんとはっきりさせてあげようとしているのかもしれないです。ただ、やはりそれは情報量が多かった時代の自分たちを捨て去ろうという話でもなく、明確なメッセージを伝えたい思いは今も持ち続けています。あくまで、自分たちの表現の幅が広がってきたということで。「後光」と「でんでん」の2曲は、その中でも特にシンプルなモジュールとして成立させたかった感覚があります。

ーー“踊らせること”に対してシンプルさを求めた結果、音楽ジャンルとしては判断が難しくなっているのが「後光」の面白さだと感じます。この曲を初めて聴いたとき、どのジャンルの棚に入れるべきか迷ったんですよね。

熊木:聴く人のバックグラウンドによって、どのジャンルに聴こえるかが変わる曲を作りたかったんです。90年代のハウスに聴こえるかもしれないし、あるいはモー娘。(モーニング娘。)に代表されるようなファンク色の強いダンスミュージックに聴こえるかもしれない。ベースだけ聴くと80’sっぽいテクノとして解釈されるかも。みんながこの曲から何を見出してくれるだろうかと、僕自身も楽しみにしているんです。僕が伝えたいことも確かに「後光」の中に入っているんですけど、そこに違う要素がどんどん足されていくさまを見たいというか。ちょっと不協和が生まれてるんじゃないかという塩梅を大事にしました。ある地点にとどまらない感覚というのを、コンセプトとしてすごく重要視しています。

ーーファルセットが使われているのもそういった理由からですか?

熊木:そうですね。そこはソウルミュージックとかも入って来るんですけど、それが楽器として、あるいは歌として聴こえるのかというところも含めて、音楽としての境界線を意図的にぼかしています。芯をいくつも作ることで、できるだけ多くのキャラクターを生みたかったんです。自分の心ってすごく不安定なもので、僕自身の心象を考えても朝と夜とで全然違うんですよね。それぐらい人間の心って不確かですし、その不安定さを認めた上で違う自分に変化してもいいんじゃないかと思うんです。それは『Kimochy Season』で歌ったことでもあるんですが、「後光」はその曖昧な状態で夏も踊って行こうというスタンスなんですよね。“一途じゃなくていいじゃん”って。自分のアイデンティティがひとつである必要はないということを、最近は表現の重要な部分に置いています。そういうしなやかさや、ある種のチャラさは今の世界を楽しむためにも必要だと思うんです。

Lucky Kilimanjaro「後光」Official Music Video

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