【浜田麻里 40周年インタビュー】第1弾:“ヘヴィメタル”を掲げて鮮烈なデビュー 音楽性の確立やイメージとの葛藤、伝説の『MUSIC WAVE 84』まで振り返る
日本におけるヘヴィメタルシンガーのパイオニアである浜田麻里。2023年にデビュー40周年を迎える彼女は、今も最前線でその圧倒的なハイトーンボーカルを響かせ続けている。リアルサウンドでは「浜田麻里 デビュー40周年特集」と題して、全6回の連載インタビューを展開。幅広い音楽性の根源や制作拠点の変遷など、40年間を振り返って、ターニングポイントとなった出会いやライブ、各アルバムの制作秘話から、活動に対する赤裸々な苦悩・葛藤まで、貴重なエピソードも交えながら存分に語ってもらった。第1回は、鮮烈なデビューを飾って以降、国内の気鋭ミュージシャンたちとレコーディングを重ね、音楽性やライブのスタイルを確立させていった1983年〜1986年ごろまでを振り返る。(編集部)
ヘヴィメタルが一般的ではなかった時代、ハイトーンボーカルを極めた理由
――麻里さんは15歳の頃から、たとえばCM用の音楽で歌うなど、プロのシンガーとしてキャリアを重ねていたことも知られています。その当時も歌手としてデビューする話はあったわけですよね?
浜田麻里(以下、浜田):はい。それ以前の12歳ぐらいからありました。だから、自分はそういう道に進んでいくのが当たり前という感覚で、それ以外のことはあまり考えたことはなかったです。
――それから大学時代に『East West』(ヤマハが主催していたアマチュアバンドコンテスト)に参加したことが、その後の活動のきっかけになったんですよね?
浜田:そうですね。予選だったんですけど、そこでビーイング系のレイズインという事務所の方に声をかけられました。ハード系の音楽性でぜひいきたいという形で、自分でも決心してデビューに至って。
――『East West』には、バンドとしてデビューしようと思って参加されたんですか?
浜田:いや、それはかけらも思ったことはなかったんですよ。同じ世代の女の子たちと始めた楽しいバンド活動は趣味で、ソロシンガーとしての厳しい本道とは別物と思ってました。バンドメンバーはみんな成績優秀な才女でお嬢様でしたし。今でも親しい友人ですけどね。どういう形でいつデビューをするんだろうっていうのは、ずっと模索していた日々だったんです。それまでスタジオミュージシャンたちとお仕事をしてきましたし、子供ながらにすごく頭でっかちでもあったので(笑)、歌謡曲系の人たちと自分は何かが違うと感じてたんですね。そんな中で、趣味で始めたはずの“ハードロックボーカル”に結びついていったんです。「これは新しい!」と一気に開眼しました。それとは別に、実際に曲を作ったりして、ニューミュージック系としてデビューするお話もあったんですけど。
――もう一つ、デビューの話が進行してたんですね。そういった中で1stアルバム『Lunatic Doll〜暗殺警告』(1983年4月)が出る際には、糸井重里さんによる「麻里ちゃんはヘビーメタル。」というキャッチコピーも話題になりました。あの当時、人気コピーライターだった糸井さんを起用する企画自体、大がかりな話に思えます。
浜田:いや、実はそうでもなくて。ビクターエンタテインメントの私の初代の宣伝マンの方が糸井さんのお友達で、親しかったらしいんです。なので、軽く頼んだっていう感じだったと思います(笑)。
――麻里さん自身はどんな意識だったんですか?
浜田:まだその頃は、ヘヴィメタルという言葉が普通に語られるような時代ではなかったので、「あぁ、そういうふうに括られるんだな」となった時点で腹を括ったようなところはありました。いつも言うことですけれども、自分としては日本にないタイプの、洋楽的でパワフルな、すごく新しいと思われるような女性ボーカリストとしてハードな音でデビューしたいっていう、それだけでしたね。
――『Lunatic Doll』の制作に向けては、ビーイング系の事務所だった繋がりから、LOUDNESSの樋口宗孝さんが、全体的なサウンドプロデュースを手がける体制で始まりましたよね。麻里さんはどのように捉えていたのでしょう?
浜田:ありがたいなと思いました。そこからはプロジェクトという感じで、大幸さん(ビーイングの創業者である長戸大幸氏)がどうとか、長戸さんの弟さん(レイズイン代表)がどうとか関係なく、現場でグイグイ進んでいきましたね。ただ、最初に事務所の社長からは、プロデューサーとして(LOUDNESSの)高崎(晃)さんか、北島健二さんか、樋口さんか、誰がいいかと訊かれたんですよ。「いやいや、みなさん素晴らしいと思うので、私には決められないですよ」みたいな中で、いつの間にか高崎さんプロデュースで別の女性ボーカリストさんのデビューが先に決まってたんですね(笑)。デビュー待ちの私は何をやっていたかというと、バンドをつけていただいて、東京や名古屋のライブハウスで、月1回ぐらいのライブを一生懸命やっていたんです。そういった流れで自然に樋口さんがプロデュースということに決まったんですけど、“こういうことだったんだ”と。私、“HM”ってひと括りにされるのが本当に嫌だったんですよ(笑)。
――ええ。ビーイングは頭文字をヘヴィメタルの“HM”に合わせた女性シンガーをデビューさせていくプロジェクトを進めていたんですよね。本名だったのは麻里さんだけでしたが。
浜田:その企画を私は本当に知らなかったんです。だから、「えー!?」「嘘でしょ!?」となって。自分は自分だという意識でやるしかありませんでした。“HM”の女の子たちとは今でもたまに交流はあって、彼女たちへの気持ちは友情に近いものでしたけれど、この企画には恨みを持ってました(笑)。
――当時、LOUDNESSはどのように見えてたんですか?
浜田:LOUDNESSがデビューしたのは、私がスカウトされた後なんですよね。だから、デビューするために事務所に入る云々の頃にはまだ存在は知らなかったんです。ただ、(前身バンドである)LAZYが凄いらしいという噂は、ミュージシャンになりたい高校生たちの間で聞こえてはいました。その後、1981年にLOUDNESSがデビューしてからはかなり話題になりましたし、あの音楽としては相当な売れ方をしたと思うので、やっぱり凄いんだなっていう感覚でしたね。
――『Lunatic Doll』の制作はどんな様子だったんですか? ご自身名義の作品が出るのは、そこが初めてでしたよね。
浜田:そうですね。一応プロとして活動していたので、自分の声がいろんな媒体から流れてくるっていうのは、子供の頃から普通のことでした。オンエア数の多いコマーシャルソングを歌ってたので。その意味では、新鮮な感じは特になかったんですけども……。
――レコーディングそのものにはすごく慣れてましたしね。
浜田:完全に慣れてました。けど、私みたいな、音もハードなタイプのシンガーはほとんどいなかったので、もっと周りも世間も驚いてくれるのかなと思っていたのに、その意味ではちょっと肩透かしというか(笑)、そこまでには至らなかったなと思います。ただ、私に関して、「初期は全然売れずに苦しい時代を過ごした」みたいな書かれ方をよく雑誌などで見かけるんですね。でも、そんな感じではなくて。もちろん、その後のヒットとは桁が違うんですけれども、最初の1〜2枚目もビクターではヒット賞をいただいていましたし、ライブをやれば会場は満杯でした。
――『Lunatic Doll』のリリースに伴う、デビュー後の初ライブは東京・新宿ロフトで行われました。それは覚えてます?
浜田:あれはちょっとしくじったなって(笑)。
――しくじった!?
浜田:練習のしすぎで、喉をちょっと痛めてしまいまして。お客さんにはわからなかったと思うんですけど、自分としてはよくなかったんですよ。大事なときに限って、ちょっとやりすぎちゃう性分なんですよね(笑)。覚えているのは、あの日はお客さんがロフトの階段のところまでいっぱいでしたし(当時の新宿ロフトは入口から客席フロアに階段が直結する設計だった)。当時は将棋倒しが頻繁に起こって本当に危なかったんですね。今考えるとゾッとします。その後の横浜シェルガーデンのライブや学祭とかもそうでしたけど、若い男の子たちのファンが熱狂的で、盛り上がりすぎてしまって。新聞にも載りましたけど、救急車が来て運ばれる人もいたり。あの頃の警備は今と比べたら手薄と言われそうなものだったと思うんです。だから、一つのコンサートを、自分が企画した通りにやれたことは、ほぼ1年ぐらいなかったんじゃないかな。2曲目ですぐに中断して、お客さんに一旦後ろに下がってもらって、もう1回始めますみたいな。そういう状況のライブが続いていました。
――アルバム自体はどんな作品だったと振り返ります?
浜田:最初のイメージ付けとしてはよかったと思います。ただ、樋口さんも含めて、本当に“現場の若いミュージシャン”が集まって作ってたので……私の歌に寄せるってことがなかったんですよ。まず演奏しやすいキーで録って、私がそれに合わせて歌を乗せていくっていうやり方だったんですね。私を売るためにというよりも、それぞれのミュージシャンが自分をアピールする場でもありましたから。それもあって、たぶん、こういう“高音シンガー”って言われるようになったんだと思います(笑)。
――メインでギターを弾いているのは北島健二さんですが、その当時から北島さんは、自身のバンドのみならず、スタジオミュージシャンとして多くの作品に参加されていましたよね。
浜田:はい。北島さんもそうですし、ベースの長沢(ヒロ)さんや、その後の鳴瀬(喜博)さんといった参加ミュージシャンの落ち着きというのは、かなり自分を安心させてくれました。キーボードの中島優貴さんにはかなりお世話になりましたね。音楽的にというよりも、精神的に。私が心配してると「いやいや、大丈夫、大丈夫」という感じで。プライベートでも気晴らしにどこかへ連れていってくれたりとか。松澤(浩明)さんにも参加してもらってましたし、湯浅(晋)くんはまだ17歳ぐらいで。
――湯浅さんはX-RAYでデビューする前でしたね。松澤さんにしても、その後にMAKE-UPでデビューするわけですが。
浜田:樋口さんは、有能と思われる若いミュージシャンを発掘するというか、経験させて引っ張り上げることがすごく好きなタイプだったんです。そういうのもあって、彼らもピックアップされたんだと思います。でも、何よりこのジャケット写真ですよね。あの頃は、カラーコンタクトなんてまだほぼ聞かないような時代でしたけど、緑のコンタクトを初めて入れたんですよ。さらに言うと、撮影の直前までは、今と同じような長い髪だったんですけど……たぶん、よかれと思ったんでしょうが、「パット・ベネターみたいに短くしたほうがいい」って、月光(恵亮)さんに言われて。
――月光さんもビーイングの初期スタッフでしたね。
浜田:はい。でも、切らなければよかったなと後から後悔して(笑)。そういう葛藤もありつつのデビューでした。