高橋幸宏は東京のカルチャーの象徴だった YMO、METAFIVE……自由奔放にポップミュージックを体現した音楽人生

 高橋幸宏さんが亡くなった。

 2020年の夏に脳腫瘍の摘出手術を受けたことが公表された後、少しずつ回復に向かっていることを信じていただけに、ファンの方は大きな悲しみ、喪失感に包まれていると思う。筆者もその一人だ。

 個人的な書き方で申し訳ないが、80年代が青春だった人間にとって、高橋幸宏は特別な存在だった。

 本格的なキャリアのスタートはサディスティック・ミカ・バンドだが、筆者が最初に“ユキヒロ”を知ったのは、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のメンバーとしてだった。代表曲「ライディーン」の作曲者であることはもちろん、ドラムを演奏しているスタイリッシュな佇まい、そして、研ぎ澄まされたビートに魅了された。正確無比であり、手数を抑えたドラミングから生まれる端正なグルーヴは本当に鮮烈だったし、“コンピューターを導入した、アジア発のポップミュージック”というYMOのコンセプトの核だったと思う。

 さらに「中国女」「君に、胸キュン。」など、ボーカリストとしても才能を発揮。デヴィッド・ボウイ、デヴィッド・シルヴィアン(JAPAN)にも通じる独特なボーカルスタイルも、ドラムと同様、後世のアーティストに多大な影響を与えた。また、独創的なコスチュームのデザインも担当し、ファッションブランド「Bricks」を設立。先鋭的な音楽集団だったYMOを幅広いリスナーに浸透させ、爆発的なヒットを生み出す媒介としての役割を担っていたのだ。当時10代だった筆者にとって彼は、東京のカルチャーの象徴だった。もっとわかりやすく言えば、世界でいちばんカッコよくてオシャレな人だったのだ。

 YMOと並行し、自身のソロ活動、鈴木慶一とのユニット・THE BEATNIKSも始動。1980年にソロアルバム『音楽殺人』、1981年にTHE BEATNIKSの『EXITENTIALISM 出口主義』、YMOの『BGM』『テクノデリック』をリリースしているのだが、いずれも超ド級の名盤である。80年代前半、高橋はミュージシャンとしての最初のピークを迎えた。

 その後も、サディスティック・ミカ・バンドの再結成(1989年/2006年)、YMOの再結成(1993年/2007年)、細野晴臣とのユニットであるSKETCH SHOW、原田知世、高野寛、高田漣、権藤知彦、堀江博久と共に結成したpupaなど、自由奔放にスタイルを変えながら、キャリアを通して洗練されたポップミュージックを体現し続けてきた。

 2006年にリリースされたソロアルバム『BLUE MOON BLUE』も素晴らしい作品だった。このアルバムで高橋は、SKETCH SHOWで培ったエレクトロニカを経由し、新たなポップ表現を切り開いたと言っていいだろう。さらに本作を携え、高野寛、高田漣、シバオカチホ、権藤知彦といったメンバーとともにライブ活動を展開。東京都現代美術館などで開催された『ミュージアムツアー』では、インプロビゼーションをメインとしたステージを繰り広げ、高い評価を得た。

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