Bialystocksのステージの美学に触れて ホールでの第一回単独公演、“ライブという作品”を鑑賞したような感覚に

 マスクの着用や声出しの禁止といった制限はまだあるものの、全国各地でフェスやイベントが開催された2022年の夏。多くの音楽ファンが実際に会場に集まり、直接音を浴び、体を動かして楽しむフィジカルなライブの価値を再確認したことだろう。その一方で、この2年は多くのアーティストが配信ライブを行い、その中には普段だったらあり得ない会場やセットを使用したり、ストーリー性を盛り込むなどして、鑑賞して楽しむライブの価値も提示された。そして、10月2日に大手町三井ホールで行われた記念すべき第一回単独公演において、Bialystocksはフィジカルに楽しむライブと鑑賞して味わうライブの両側面を併せ持つステージで、彼らなりの美学を示してみせた。

 もともとBialystocksは映画作家でもある甫木元空の初監督作品『はるねこ』の生演奏上映をきっかけに結成されている。つまりはまず映像ありきのライブからスタートしていて、本人たちが自らを「制作集団」と位置づけ、「作品ありき」の姿勢を貫いているのは、そんな背景が大きく関係している。今年の1月に発表されたEP『Tide Pool』から甫木元とキーボードの菊池剛の2人編成になり、音源やライブはその都度でサポートメンバーを迎える形式になったのは、この「作品ありき」のスタンスをより強固なものにする意味で、必然だったようにも思う。

 実際にこの日のライブを観た感想も、「『Bialystocksのライブ』という作品を鑑賞した」という言い方が一番しっくり来るかもしれない。本編は一切MCなし。合間に映像やモノローグを挟みながら16曲が一気に披露され、ホールでの着席公演だったこともあって、まさに映画を鑑賞するような雰囲気にも近かった。明確なストーリー性があるわけではないが、ロードムービーというほど淡々としているわけでもなく、所々の歌詞が台詞のように聴こえたりもして、甫木元と菊池の共通のルーツであるミュージカル映画の興奮に近いものがあったと言えるだろう。

 もちろん、彼らのライブは十分にフィジカルな要素もあって、まず印象的だったのが甫木元のボーカル。音源でも聴くことのできる温かみのある歌声の魅力に加え、ライブでは演奏の盛り上がりと呼応しながら荒々しくシャウトをしたりと、かなりエモーショナルな側面もある。ハンドマイクを基本に、アコギやエレキを持ち替えながら歌うその姿は、「映画作家でもある」というプロフィールを忘れさせる、堂々たるシンガーの立ち姿だった。一方の菊池はスタインウェイのピアノ演奏を軸に、2台のキーボードを行き来しながら、様々な音色のフレーズを繰り出していく。ときにはギターも演奏したりと、職人的なマルチプレイヤーとしての側面も感じさせた。

 この日のサポートには、『Tide Pool』にも参加しているドラムの小山田和正に加え、ギターに西田修大、ベースに越智俊介が参加。それぞれがジャズと接点を持ちつつも、ロックもポップスも幅広くジャンルレスに演奏することのできるプレイヤーであり、楽曲に音源とは異なる新たな命を吹き込んでいた。僕は以前Bialystocksについて「秦 基博が中村佳穂バンドのアレンジで歌ったら、こんな感じになるかもしれない」というレビューを書いたことがあるのだけど、西田と越智はまさに中村のバンドにも参加していて、リンクする部分もあったように思う。さらには、コーラスとして佐々木詩織とオオノリュータローが加わって、ソウル/R&B的であり、やはりミュージカル的でもある楽曲の魅力に大きく貢献していたことは間違いない。

 菊池のピアノソロからバンド全体でのセッションのような演奏に突入する「All Too Soon」で華々しく幕を開けたライブは、途中何度となくハイライトが訪れたが、個人的なクライマックスは後半の「灯台」から「I Don’t Have a Pen」の流れ。曲の途中から歪んだギターが入ってきて、甫木元がラストで高音のファルセットを響かせる「灯台」、ギター2本と歌から始まり、徐々にスケール感が高まって、プログレ的な世界観を作り上げる「Thank You」、印象的な光の演出も加わった「I Don’t Have a Pen」では多声コーラスがその威力を発揮し、西田がギターソロで存在感を見せると、その熱に呼応するように甫木元もアグレッシブなシャウトを聴かせ、場内からは大きな拍手が贈られた。

 ソウルフィーリングが心地いい「Over Now」、アウトロにベースソロが加えられた「差し色」を経て、本編最後に披露されたのはアップリフティングな「Nevermore」。〈夜はまだまだ終わらない〉と歌う「All Too Soon」から始まり、〈あなたとまたどこかで会える気がする〉と歌う「Nevermore」で本編を終えるという流れは、やはりどこか映画的な雰囲気が感じられ、「Nevermore」は一夜の旅をともにしたオーディエンスへと贈られたエンドロールのようだった。

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