前田敦子が変えたアイドルにおける“センター”の価値 AKB48卒業から10年を機に振り返る

「こんなにたくさんの方に背中を押していただけて、旅立つことができる私は本当に幸せ者です。AKB48は、私の青春のすべてでした」(※1)

 10年前の2012年8月26日、東京ドームのステージで前田敦子はそう口にし、そして翌27日のAKB48劇場での公演でグループを卒業した。

 前田敦子は“傷を負った主人公”だった。その姿はまるで少年漫画のキャラクターのようで、傷つけば傷つくほど、大きく成長していった。一方でそれは、いつもキラキラとしている従来のアイドル像とは違うものでもあった。特に卒業前年の2011年6月、3回目の『AKB48選抜総選挙』で彼女は、「私のことが嫌いな方もいると思います。ひとつだけお願いがあります。私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」という伝説的なスピーチをのこした。いまだかつて、自分のなかに刻まれた“傷”とここまで向き合い、そして言葉としてあらわしたアイドルはいただろうか。しかもそこはグループのトップを決める場であり、もっとも祝福されるべき空間だったはず。彼女は熱狂的な支持をあつめながら、アンチの数も多く、そのすべてを背負って活動していることにあらためて気づかされた。そして、そんな前田の姿があったからこそ“AKB48のエース”という看板には重さが生まれたのだろう。

センターが嫌すぎて「大泣きしました」

 前田は当初、センターポジションに立つことを嫌がっていたという。雑誌『Quick Japan』2009年12月11日発売号(太田出版)のインタビューで、前田は「とことん嫌がってました。2nd公演(2006年4月〜8月)のときに、『渚のCHERRY』っていうユニット曲をもらったんですけど、その時はもう嫌すぎて大泣きしました」と振り返っている。当時、まだ自分たちが立つべきポジションがはっきりとつかめていないなかで、センターを任されたことに極度のプレッシャーを感じていたそうだ。

 たしかに前田はそういう臆病さをいつもかかえていたように感じる。筆者は2019年、映画『葬式の名人』で前田にインタビューをおこなった(※2)。そのときも彼女は、臆病さをのぞかせていた。

「自分についての記事は深くは読み込まないようにしているんです。もちろん、そうやって書いていただいたり、分析してくださるのはすごくうれしいです。だけど、自分が人にどう見られているか、それを知る怖さもあるんです。知ってしまうと、『それ以上のことをやらなきゃいけない』と意識してしまうから」

 このコメントは、AKB48時代、否定的な意見も向けられ、しかしグループのエースである以上はそういったものと向き合い、乗り越えなければならなかった前田だからこそ説得力があった。きっとAKB48のとき、ずっと「それ以上のことをやらなきゃいけない」という気持ちで常にグループを引っ張っていたのだろう。だからなのかグループ在籍時の前田は、絶対的な存在感を放ちながらもどこか満身創痍をうかがわせていた。なかでもドキュメンタリー映画『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』(2012年)での前田の姿は、非常に印象的だった。フラフラになりながらステージの上に立っていたのだ。

【予告】「DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on」/ AKB48[公式]

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