高橋幸宏が後世に与えた多大な影響 高野寛が証言する、70年代から現代に至るイノベーターとしての真価

 日本のロック黎明期である1970年代から現在に至るまで、およそ50年の長きに渡って第一線で活躍し続けてきた音楽界のリビング・レジェンド、高橋幸宏。サディスティック・ミカ・バンドやYellow Magic Orchestraをはじめ、THE BEATNIKS、SKETCH SHOW、pupa、METAFIVEなど様々なバンドやユニットで彼が作り上げてきたレガシーについては改めて言うまでもないだろう。

 そんな彼の1980年代前半のソロワークに光を当てるリイシューシリーズ「ユキヒロ×幸宏 EARLY 80s」の一環として、4作目『WHAT, ME WORRY?』(1982年)と5作目『薔薇色の明日』(1983年)が再発されることになった。いずれもファンの間では元より人気の高い作品だが、近年のシティポップリバイバルの流れの中で再評価の気運が高まっている名作である。

 リマスターを手掛けたのは、昨年リリースされた高橋の足跡を辿る2枚組コンピレーション『GRAND ESPOIR(グラン・エスポワール)』でも素晴らしい仕事をした砂原良徳。

 そして今回、そんな高橋幸宏の奥深い魅力を高野寛が語ってくれた。彼は高橋に見出されてミュージシャンデビューを果たした、いわば直弟子とも言える存在で、高橋が率いるバンド、pupaの一員でもある。長年薫陶を受けてきた彼が語る高橋幸宏の凄さとはどのようなものなのか。敬愛に満ちた発言から、稀代のアーティストの真価が浮かび上がる。(美馬亜貴子)

高野寛の音楽人生を決定付けた高橋幸宏との出会い

高野寛

ーー高野さんは、幸宏さんと鈴木慶一さんが1985年に設立した<T・E・N・Tレーベル>のオーディションで世に出ました。まさに幸宏さんがきっかけでミュージシャン人生が始まったんですよね。

高野寛(以下、高野):はい。大学の時に宅録で作った曲をいろいろなコンテストとかオーディションに応募していたんですけど、なかなか理解されなくて。80年代の中頃は、YMOが日本を席巻していた時とはムードが変わってきていて、BOØWYやレベッカみたいなバンドが人気だったんです。だから、僕がやりたいようなことを理解してくれるところがなかなかなくて。そんな時に<T・E・N・T>のオーディションを見つけて、自分の好きな高橋幸宏さんと鈴木慶一さんが審査をしてくれると。ここで認められなかったらもうだめかなという気持ちで応募しましたね。そしたら、最終選考を通過して、最後のライブ審査で、「ベストパフォーマンス賞」をいただきました。あの出会いがなかったら、多分違う人生を送っていたと思います。

――それまでずっと好きだった人に認められたわけじゃないですか。その時は、どんな気持ちだったんですか?

高野:いや、もうすべてのシチュエーションが、それまで経験したことがないことばかりで。大阪の大学に通っていたので、そのオーディションのために上京して、しかも一人でトラックを出しながらライブをするというのも、実はその時初めてやったんですね。全てが初めてのところに、憧れの人がいる、しかも審査員で、まじまじと見られていると……あれほど緊張するシチュエーションはないですよ。教授(坂本龍一)のツアーで、「戦メリ」(「戦場のメリークリスマス」)のイントロをギターで弾いたときぐらいに匹敵するような(笑)。

――そしてその後、いきなりTHE BEATNIKS(高橋幸宏と鈴木慶一のユニット)のツアーに駆り出されて、ギタリストとしてプロの道を歩み出します。

高野:アマチュアとプロの違いをいろいろ思い知らされるツアーでした。僕らアマチュアのバンドマンは、1曲が仕上がるまでに1日何時間も同じ曲を繰り返してやるんだけど、幸宏さん達はコード譜を見ながら合わせていって、3回ぐらいやると「よし、大丈夫だね、次に行こう」と言って、次に行ってしまう(笑)。それに全くついていけなくて。毎日リハーサルのスタジオに行く前に予習をして、終わったら復習をしてと必死でした。

ーー同じミュージシャンとして幸宏さんと接するようになって、作品のことについて聞いたり、この作品が好きですと伝えたりしたことはありましたか? 

高野:いや、その頃は意外とそういう話はできなかったですね。とにかく緊張していて。幸宏さんと緊張せずに話せるようになったのは、多分10年、15年経ってからだと思います(笑)。自分はあまりに経験不足で、やらなくちゃいけないことが沢山ありましたけど、幸宏さんは、その時点ですでに金字塔をいくつも打ち立てた偉大なミュージシャンですから、自分はまだまだ頑張らなきゃなという思いがずっとありました。

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