“新アイドル”誕生の歴史

ももいろクローバーZの歴史を紐解く 第3回:改名~悲願の紅白出場とその後

“6人”でつかんだ『紅白』初出場、モノノフも感涙

 そしてついに運命の知らせが届けられる。11月26日、ももいろクローバーZの『NHK紅白歌合戦』出演が発表された。12月24日、25日のさいたまスーパーアリーナでの『ももいろクリスマス2012』を終え、1日休養しただけで、27日から31日までNHKのリハーサル室で一日中練習に励んだという。

 31日の『紅白』当日。ももクロが披露したのは「サラバ、愛しき悲しみたちよ」と「行くぜっ!怪盗少女」のスペシャルメドレー。黒、白の妖艶な衣装からメンバーカラーのコスチュームへ早着替えして、歌い出した「行くぜっ!怪盗少女」。曲冒頭のメンバー紹介部分で口ずさまれた〈レニ カナコ アカリ シオリ アヤカ モモカ〉の6人の名前。もう、泣くしかなかった。〈アカリ〉の名前が歌い上げられた。早見脱退後、このパートは5人バージョンになっていた。しかしメンバー本人たちのアイデアで、“6人”で『紅白』出場を迎えた。早見の本当の卒業がこの瞬間にあった。

 Twitterには、“6人”のステージへの賞賛、感動の声が多数投稿された。川上は『ももクロ流』のなかで、「ステージは最高のデキだったと思います。リハでは不安だったけど、本番が一番うまくいった。ライブが終わった後、本人たちが帰ってきたときは、思うところがありましたね。泣きはしなかったけど…ちょっと泣いたかな」と振り返っている。

 紅白出場翌日の2013年1月1日、ももクロは朝8時からUstreamの番組に出演。2階建のバスに乗り込んで、飯田橋ラムラ、石丸電気、明治記念会館、NHKホールなど聖地をめぐった。筆者も、あの興奮から一転、脱力気味にUstreamを鑑賞していた。元旦の朝ならではのガランとした街のムード、大勝負を終えたメンバーのゆるいやりとり。夢見心地だった。そしてバスが最後に着いた場所、それが国立競技場。同所に集まっていたモノノフの前で、ももクロは次なる目標として「国立競技場でライブがしたい」と宣言する。

物議を醸した『オズフェス』への出演

 ももクロは2012年から、実力磨きに奔走していた。活動初期から口パクを良しとする方針だったが、同年8月に坂崎幸之助(THE ALFEE)主宰『フォーク村』、11月『ももいろ夜ばなし第一夜「白秋」』でアコースティック構成による歌勝負の舞台に立つなど、歌唱面に注力。2013年3月、大阪城ホールからはじまった『5TH DIMENSIONツアー』は、仮面装着のために表情でのごまかしが効かず、MCをなくすことで歌のクオリティを徹底追及。4月13日、15日の西武ドーム『ももいろクローバーZ 春の一大事 2013~星を継ぐもも~』では初の生バンド構成にも挑んだ。

 歌の技術向上、バンドセットなどを経験したももクロ。だがそこで波紋を呼んだのが、オジー・オズボーンとシャロン・オズボーンが主催するロックフェス『Ozzfest Japan 2013』への出演だ。「アイドルが出るなんて」と否定的な意見が飛んだが、ももクロは本番で「いま、目の前にいる私たちがアイドルだ」とロックファンを煽った。合間のコーラの一気飲みなどはやはり疑問視された部分もあった。それでもNARASAKI、和嶋慎治(人間椅子)といった名うてがギタリストで加わったこともあり、ロックファンから一目を置かれる結果を残した。

 BABYMETALが同年10月『LOUD PARK 13』に出演した際も、「アイドルがメタルフェスに出るなんて!」と物議を醸した。当時は、アイドルがロックフェスに出演するときは忌避的な反応が多く挙がった。現在は、かつてほどの逆風は吹かない。ももクロが、そういった変化の一端を担ったことは間違いない。

 2013年、ももクロはグループとしてより筋肉質になっていった。そして年末、2年連続『紅白』出場を果たす。

■田辺ユウキ
大阪を拠点に、情報誌&サイト編集者を経て2010年にライターとして独立。映画・映像評論を中心にテレビ、アイドル、書籍、スポーツなど地上から地下まで広く考察。バンタン大阪校の映像論講師も担当。Twitter(@tanabe_yuuki)

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