「メイキング・オブ・モンパルナス1934」特別編

村井邦彦×吉田俊宏 対談:アルファミュージックの原点を語る

 リアルサウンド新連載『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』の執筆のために、著者の村井邦彦と吉田俊宏は現在、様々な関係者に話を聞いている。その取材の内容を対談企画として記事化したのが、この「メイキング・オブ・モンパルナス1934」だ。

 第五回は、村井邦彦の誕生日となる本日3月4日にBlu-rayボックス『ALFA MUSIC LIVE-ALFA 50th Anniversary Edition』(完全限定生産盤)が発売されることを受けて、改めて吉田俊宏が村井邦彦に取材。ミュージシャンたちとの出会いやアルファミュージック設立にいたる経緯、5月革命の余韻が残る1969年のパリの雰囲気などを語った。(編集部)

※メイン写真は『ALFA MUSIC LIVE』より。撮影:三浦憲治

アーティストたちとの出会いは偶然

吉田:『ALFA MUSIC LIVE』の映像を見直してみて改めて感じるのは、ここに出てくるアーティストたちがいなければ、日本のポピュラー音楽の歴史はずいぶん違っていただろうなということです。ユーミン(松任谷由実)やYMO(イエロー・マジック・オーケストラ、細野晴臣・高橋幸宏・坂本龍一のトリオ)をはじめ、歴史を変え、歴史をつくった人たちばかりですからね。村井さんの才能を見いだす眼力が確かだったともいえますが、村井さんはどんなところに着目して、彼らをアルファミュージックやアルファレコードに引き入れたのでしょうか。

村井:はっはっは。いやあ、最初から難問を突きつけられましたねえ。うーん、そういう人たちと出会えたということ自体、もう偶然なんですよ。僕がたまたまキャンティっていうイタリアンレストランに出入りしていた、そのキャンティをつくった川添のお父さん(浩史)と息子の象(しょう)ちゃん(川添象郎)がミュージカル『ヘアー』を手がけた、そこに小坂忠や細野晴臣がいて、その周りにユーミンがいた……、みたいなね。

吉田:偶然に偶然が重なった、と。

村井:そうですね。でも、やっぱりユーミンの曲を初めて聴いたとき、これは今までにない作曲家だなと思ったんですよね。例えば、簡単なフォークソングだとハ長調ならハ長調のままですよね。でも、ユーミンの場合、ひとつの曲の中にいろんな調性が出てくる。使っているコードも多彩ですよね。僕はそこがすごく気に入ったんです。

吉田:村井さん自身、ジャズ出身ということもあって、作曲家としていろんなコードを使っていますからね。

村井:そうそう(笑)。ただ、ユーミンはそれと同時に彼女の書く歌詞の初々しさっていうのかな、感性が素晴らしかった。

吉田:細野さんはどんな印象でしたか。

村井:何といっても音楽性がいいんですよ。どう説明していいか分からないんだけど、例えば、細野がドミソのコードをギターでジャランと弾いただけで、もう他の人と違うわけ。それが素晴らしいなと思って、一緒にスタジオで仕事するようになったわけです。ユーミンが『ひこうき雲』を作るときに「音楽監督をやってくれ」と細野に頼んだら、彼がマンタ(松任谷正隆)を連れてくるわけですよ。

吉田:それも偶然の出会いというわけですね。

村井:まさにそう。そうやって、次から次へとそういう人たちと出会っていったわけです。だから本当に運命みたいなものですね。

吉田:偶然を生み出す何か不思議な……、人を引き寄せる引力が村井さんにあったのだろうなと思えますね。

村井:うん、あったかもしれませんね。アーティストとの出会いって本当に面白いですよ。同じ時期に第一勧業銀行(現在のみずほ銀行)に勤めながらシンガー・ソングライターとしてデビューした小椋佳さんと出会っているんだけど、向こうも僕に対してひらめかないし、こっちもひらめかない。だから友達としては付き合っているのに、レコードを作るには至らなかったんです。つまり一緒に何かをやる相手というのは、お互いにピンと来るものがあるんだろうねえ。アーティストの方も、僕の方もね。

吉田:当時、作曲家が自らアルファのような音楽出版社やレコード会社を設立するなんて、ほとんどありえない話だったわけですよね。村井さんは若くして作曲家になって、すぐに売れっ子になった。既存のレコード会社の要求は「さらに売れる曲」だったわけですよね? 自分で会社をつくってしまった背景には、そうした状況への反発もあったのでしょうか。

村井:その通りなんです。僕は作曲家として世に出る前、赤坂でレコード店を開いていたんですよ。

吉田:まだ慶応大学の学生時代ですよね。

村井:4年の頃です。僕は会社員になるのは嫌で、独立して何かをやろうと思っていた。レコードが大好きだからレコード屋さんをやったわけです(笑)。大学を卒業したころかな、ジャッキー吉川とブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ」が大ヒットしたんです。僕は大学のジャズオーケストラでアレンジをしたり、作曲も少しはやったりしていたけど、そういうヒットソングを書くという発想はなかったんです。少なくともそれまでは。ところが「ブルー・シャトウ」を聴いたら、和声の進行が非常に洋楽的なんですよ。こういう曲なら僕でも書けるんじゃないかと思って、友達にフィリップス・レコードの本城和治さんを紹介してもらった。

吉田:それでヴィッキーとか、森山良子さんに曲を提供して、作曲家になったのですね。

村井:そうそう。何作目かでザ・テンプターズの「エメラルドの伝説」が当たっちゃったんですよ。そうしたら、すぐにナベプロ(渡辺プロダクション)やホリプロから曲の注文が殺到して、わずか1年か2年ぐらいの間にヒットソングライターが経験する一通りのことはやってしまった。その最中に加橋かつみの録音に立ち会うためにパリへ渡って、フランスの音楽業界の王様みたいな存在のエディ・バークレイのところで仕事をして……。

吉田:エディ・バークレイは村井さんと一緒に書いている小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』の「エピソード1」にも登場させましたね。ドレスコードの厳しいカンヌのコンサート会場にホテルのバスローブ姿で現れたおじさん(笑)。あのエピソードは実話なんですよね。

村井:そうそう、あれにはまいったね(笑)。僕はバークレイの音楽出版部門の責任者ジルベール・マルアニからバークレイが保有する楽曲を日本で売る権利を買ったわけです。最初に選んだのが4曲で、その中の1曲に「マイ・ウェイ」が入っていた。

吉田:それで作詞家の山上路夫さんと一緒に音楽出版社のアルファミュージックを旗揚げするんですよね。「マイ・ウェイ」はポール・アンカが英語の歌詞をつけて、フランク・シナトラの歌で大ヒットするわけですが、そうなる前の段階ですものね。売れた後の「マイ・ウェイ」を買ったのなら分かりますが、フランス語の原曲「コム・ダビチュード」の時点で、その権利を村井さんは買った。

村井:そうなんですよ。

吉田:慧眼というべきか、素晴らしい嗅覚ですね。それだけでも村井さんの凄さの片鱗がうかがえますよ。大ヒットした「マイ・ウェイ」は旗揚げしたばかりのアルファミュージックにとっては大きな収益源になったでしょうね。

村井:自分たちが書いた山上・村井コンビの曲としては、赤い鳥の「翼をください」が1971年に出るんですけど、ユーミンはせっせと曲を書いている習作の段階で、まだ収入源になっていませんでしたからね。「マイ・ウェイ」と「翼をください」で食いつないでいた(笑)。面白いですね、考えてみると。

吉田:1969年に加橋かつみさんのレコーディングでパリへ行った。その旅が村井さんの転機になったわけですね。

左からアンリ・サルヴァドール、ジョニー・アリディ、 一人おいてエディー・バークレイ、 クインシー・ジョーンズ、1960年代のフランス音楽界の大物たち。 (Photo by Bertrand Rindoff Petroff/Getty Images)

村井:そうですねえ。エディ・バークレイを通じて欧米の音楽業界の要人と付き合うようになったのですが、ずいぶん日本と様子が違うんですよね。日本のレコード会社といえば、ほとんどが大きな電機メーカーの子会社でしょう。松下電器産業(現在のパナソニック)とかソニーとかね。向こうは本当にレコード屋さんなんですよ。例えばエディ・バークレイにしても、彼は作曲家で、元レコード屋ですからね。ナイトクラブでピアノを弾き、自分のオーケストラも持っていた。そんな人たちがレコード会社を経営しているなんて、これは面白いなって思いましたよ。僕も作曲家として同じことをやってみたいと考えてアルファミュージックを始めたのです。

吉田:へえー、バークレイも作曲家でレコード店を開いていたのですか。村井さんが学生のころ始めたレコード店は「ドレミ商会」という名前でしたよね? レコードへの想いが本当に強かったんですね。

村井:ドレミ商会は赤坂のホテルニュージャパンの隣にあったんですよ。僕は音楽も好きなんだけど、本も大好きでね。とにかく自分が欲しい本とレコードを好きなだけ買えるくらいにはお金持ちになりたいな、っていうのが僕の子どもの頃からの夢だったの(笑)。でね、レコード屋をやればお店にレコードがたくさんあるから、いつでも聴ける。これはいいな、という単純な発想でしたね(笑)。

吉田:ははは。ケーキ屋さんやおもちゃ屋さんを夢見る子どもと発想は同じかもしれませんが、大人になるまで夢を見つづけるのは大変なことで、それも才能ですよ。本もレコードもタイムマシン的なところがあって、ページをめくればアーネスト・ヘミングウェイに会えるし、針を落とせばベニー・グッドマンにも会えますものね。

村井:うん。本とレコードは本当に魅力がありますねえ。日本にいてもヨーロッパの音楽が聴けるし、うんと古い時代の音でも聴けるわけですから。例えば、ジョージ・ガーシュウィン(1898~1937年)のピアノを今でも聴けるんですよね。

吉田:ガーシュウィンが作曲した曲を後の人が演奏した録音ではなく、ガーシュウィン自身の演奏ということですね?

村井:そう。彼はね、ピアノロール(演奏情報を記録した巻紙。自動ピアノに装着して演奏させる)に録音していたんですよ。それからピアノロールで僕が好きだったのはね、ロシア人のピアニストで作曲家の……、ど忘れしちゃったな。

吉田:えーと、ラフマニノフ(セルゲイ、1873~1943年)ですか?

村井:そうそう、ラフマニノフ!  ラフマニノフも残しているよね。たぶんロールだと思うんですけど、それを基にしたCDも出ています。1930年代くらいの録音ですが、そういう過去のものね。戦争直前のフルトヴェングラー(ヴィルヘルム、1886~1954年)指揮のベルリン・フィルとかもいいし、最近聴いて凄いなと思ったのは、李香蘭(山口淑子、1920~2014年)の歌う「蘇州夜曲」。これなんか満州(現在の中国東北部)録音だよね、きっと。そういうのを考えると、アルファのスタジオでユーミンやYMOが録音してもう40~50年たちますからね。同じような記録になってくるのかなというふうにも思います。