宮下遊、アルバム『錆付くまで』で切り拓いたサウンドメイクにおける新境地 心地よい立体音像を再現した収録曲をレビュー

 両耳のそばで囁いているかのような立体的な歌声が宮下遊の楽曲に生まれたのは、正確に言えば、2019年5月5日、動画共有サイトに公開したボカロP・煮ル果実の「ヲズワルド」のカバーからだろう。普段以上にリアルな息遣いを感じさせる声。ボーカルのメロディラインを軸に左から右へと駆け巡っていく声。耳の鼓膜のそばで囁いているかのような声。――ボーカルエフェクトを駆使して実現したありとあらゆる声色が、ヘッドホン、イヤホンの装着時においてもたらしたのは、極上の臨場感だ。このように聴覚へ刺激を与え、没入感が段違いな楽曲へと昇華した宮下遊による「ヲズワルド」は、ネット上ですでに公開されている同曲の“歌ってみた”動画のなかで、群を抜いてトップの1,930万回再生超えを誇るまでに成長を遂げた。

ヲズワルド 歌ってみた/宮下遊
『錆付くまで』通常盤

 2008年、動画共有サイトを中心に歌い手としての活動を始めた宮下遊は、「ヲズワルド」で爆発的ヒットを生む前から、歌/ソングライティング/編曲/イラスト/動画/ミックスの領域を自らカバーして活躍するマルチなアーティスト。2013年4月には自身のオリジナル曲を歌唱した1stミニアルバム『造花』、2014年5月には2ndミニアルバム『holidays』、2016年4月には3rdミニアルバム『水脈』、ボカロオリジナルアルバム『六号通路』をリリースした。宮下遊が楽曲に艶やかな声や高音といったあらゆる声のエッセンスを存分に取り込むと、不思議なまでにもともとあったその楽曲の物語が想像を超えた世界線で膨らんでいく。決して原曲の世界観を崩すことなく、むしろダイナミックに膨らませることのできる表現力、テクニックを秘めているのは、歌い手界隈では比類がない。2016年8月、1stアルバム『紡ぎの樹』でメジャーデビューを果たして以降、2018年12月には2ndアルバム『青に歩く』をリリース。そして、サウンドメイクにおける新境地を切り拓いたのが、2021年1月20日にリリースしたばかりの3rdアルバム『錆付くまで』だ。通常盤、PONYCANYONオンライン通販限定盤のほか、各クリエイターによる楽曲解説コメントやMV設定資料、ライナーノーツを載せたコンセプトブックが付属する初回限定盤の3バージョンで発売される今作は、「ヲズワルド」のカバーの反響を引き継いだうえで作り込まれた至高の一枚といえる。

 かいりきベア、てにをは、シャノン、Mahをはじめとして、これまでも宮下遊に楽曲を書き下ろしたことのあるボカロPと、カフ@、syudou、楽園市街など今回新規で参加したボカロPによる書き下ろしの10曲に加え、自身作詞作曲の2曲で構成された『錆付くまで』。各作家の個性があふれだす楽曲の物語を、宮下遊が独自の視点で噛み砕き、絵を描くように自由なエッセンスを加えて完成させた今作は、単なる楽曲としての味わい深さもありながら、耳を澄ませば、これまで以上に宮下遊によるボーカルエフェクトが隙間なく施された印象を受けるものに。鋭利なギターフレーズに侵略的な歌声を乗せた「アノニマス・エゴイズム」、エスニックサウンドに奔放な声風が散りばめられた「輪廻転生」などから顔を覗かせるのは、サウンド面/ボーカル面における表現の開拓だ。

 さらに、言葉遊びとエレキギターの音色が主張する「エンドゲエム」、「ヲズワルド」の生みの親でもある煮ル果実による「Coquetterie dancer」を中心として全体的に顕著なのが、バイノーラルサウンド技術を使用したかのような奥行きのある立体的なボーカル。同曲は、ミュージックビデオとしても2020年12月18日に公開されており、踊りで銭を稼ぐ貧しい少年が、最終的に自分を馬鹿にしていた者達を狩り、踊ることで人々の関心を集める不幸な結末を迎えるストーリーだ。カートゥーンテイストのイラストで描かれた同曲を、強弱を加えたマッドな声色、ボーカルのメロディラインから外れた幾重にも重なるハモリ、四方八方から飛び込んでくるようなボーカル、囁き声をもって、迫力ある音の世界へと誘導した。全体的に声の表情が解き放たれた今作は、宮下遊が新境地へ向かって歩き出したことをうかがわせるほど。ウィスパーボイスやエモーショナルな歌声などのあらゆる声を楽曲に取り込んできた宮下遊が辿り着いた先は、さらなる心地よさを生み出すことのできる“体感音響”だ。透明感のある自身の声の素材にミックス技術を付加することで、宮下遊は、歌という表現方法を超えて感覚で見せる世界を創出した。

Coquetterie dancer/宮下遊×煮ル果実【Music Video】