“神様、僕は気づいてしまった”の音楽に感じる享楽性の正体 最新ツアー東京公演を見た

 しかしながら、時折、紗幕に映し出されるディストピア的な映像が、彼らの生み出す熱狂が決して“楽しさ”や“喜び”だけを根拠にしただけのものでないことを示唆しているようでもあった。たとえばライブの中盤、「メルシー」と「TOKIO LIAR」の間の小休止中に流れた映像では、ビルが立ち並ぶ都市や、雑踏、道端の落書きなど、私たちが普段見慣れている景色、あるいは美しい大自然の風景などと混ざり合って、廃墟や戦争をイメージさせる映像が射し込まれる。そうした廃墟や戦争のイメージは、いわゆるSF的な、「いつかこうなるだろう」という類のものではない。私たちが普段、何気なく生きているこの日常のすぐ隣には、死や暴力や破壊が常に付きまとっているのだということ。あるいは、私たちが平穏だと思い込みそうになる日常の裏側には、あまりにも膨大な悲しみや嘘が蓄積されてきたのだということを、それらの映像は示唆しているように思われた。そこには、とてもシビアな現状認識があった。「神僕」が描くディストピアとは、“いつか”ではなく“いま”なのだ。“20XX”年とは、過去でも未来でもなく“いま”なのだ。

 この記事の冒頭で、この日のライブが「享楽的」だったと書いたが、ここで言う享楽性とは決して「楽しくて踊れる!」といった短絡的な感覚ではなかった。むしろ「絶望の果ての果てで、もはや踊るしかなくなった」という徹底したリアリズムを根底に置いたうえでの「享楽性」を、この日のパフォーマンスは感じさせた。「ロックンロールは、苦悩から解放してもくれないし逃避させてもくれない。 ただ、悩んだまま躍らせるんだ」という、The Whoのピート・タウンゼントの有名な言葉にも通じているようなこの感覚こそが、「神僕」がロックバンドという表現方法を選択している理由なのだろうと思う。

 本編のラストに「だから僕は不幸に縋っていました」、アンコールで「CQCQ」という代表曲を披露して終わったこの日のライブ。デビュー当初から一貫している、人間の内面性を深く掘り進むようなルサンチマン的な世界観は、アーティストによっては薄っぺらくも見えてしまうものだが、「神僕」の場合は、作品を経るごとに、その世界観の説得力は強まっているように思える。

 そもそも、この覆面を被った4人は、“神様”という目に見えない巨大で理不尽な存在よりも、“僕”という小さな個人の側に立つとことを初めから表明し続けてきたのだ。そして彼らは、その実践として、ロックバンドという方法を選んだ。自分自身の感情や肉体に対して、徹底的に“当事者”であり続けることによって、理不尽な“神”に抗おうとする――そんなロックバンドとしての思想の強さが、「神僕」にはあるのだ。それを強烈に実感させられるライブだった。

■天野史彬(あまのふみあき)
1987年生まれのライター。東京都在住。雑誌編集を経て、2012年よりフリーランスでの活動を開始。音楽関係の記事を中心に多方面で執筆中。Twitter

<セットリスト>
M1.オーバータイムオーバーラン
M2.ストレイシープ
M3.20XX
M4.UNHAPPY CLUB
M5.僕の手に触れるな
M6.私の命を抉ってみせて
M7.天罰有れかしと願う
M8.メルシー
(Instrumental)
M9.TOKIO LIAR
M10.Troll Inc.
M11.deadlock
M12.青春脱出速度
M13.ウォッチドッグス
M14.大人になってゆくんだね
M15.だから僕は不幸に縋っていました
EN.CQCQ

神様、僕は気づいてしまった 公式サイト

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