亜無亜危異、“反逆のアイコン”がパンクシーンに与えた衝撃 不完全復活に至る激動のバンド史を解説

 1978年結成のアナーキーがデビューしたのは1980年2月。電化したRCサクセションが久保講堂でワンマン(4月)をやって『RHAPSODY』を出した年であり、同年11月にはザ・ルースターズがデビューした。デビュー盤『アナーキー』は出てすぐに買い、毎日何度も聴いた。森永博志さんのラジオ『サウンドストリート』(NHK-FM)にパンタさんが出たとき、両氏が「すごいバンドが出てきたね」と揃って絶賛してたのも覚えている。

 初めてライブを観たのがなんのときだったかは覚えてないが、当時は内田裕也が『ニューイヤーロックフェス』のほかに春の黄金週間にも複数出演のロックイベントをやっていたので、それだったかもしれない。もちろん浅草国際劇場の『ニューイヤーロックフェス』でも観たし、マイキー・ドレッドをプロデューサーに迎えてロンドンでレコーディングされた3rdアルバム『亜無亜危異都市(アナーキーシティ)』(1981年)を携え日比谷野音で行なったワンマンも観に行ったし、1982年1月の久保講堂ワンマンも気合を入れて(髪を逆立てて)観に行った。久保講堂でワンマンをやるというのは少なからずRCを意識したところもあったのかもしれないが、当時RCとアナーキーはロックイベントに一緒に出ることがわりと多く、また恐らく1980年だったと思うが文化放送の夕方のラジオ番組でジョイントライブが放送されたこともあった(そのテープ、まだ持ってます)。

 アナーキーはかなりハイペースでアルバムを出していた。デビューした1980年に『アナーキー』と『’80維新』、81年に『亜無亜危異都市』と『READY STEADY GO』、82年に『ANARCHY LIVE』と『ANARCHISM』。その後は毎年1枚ずつ出し、結局1980年から1985年の間にライブ盤含めて9枚も出した(オリジナルメンバーの最終作は1985年の『BEAT UP GENERATION』)。そのようにコンスタントに出すなかで、1stアルバム『アナーキー』にあった初期衝動を保ちながらどう進化していくか。それはやはり難しいことではあっただろう。

 マンネリに対して唾を吐いていたはずなのに、自分たちがそこに陥ることに対しての葛藤と戦い。とりわけ歌詞にその苦悩が滲み出るようになった。がしかし、サウンドは1作ごとに進化した。パンクは下手でもいいのだと開き直る数多のバンドと違い、彼らはひたすら演奏力を磨いていった。とりわけ藤沼伸一のギタリストとしての覚醒は目を見張るものがあった。ソリッドなだけじゃなくブルースやソウルといったブラックミュージックにある粘り気をものにし、弾き方もファッションも佇まいも初期とはずいぶん変化した。

 初期はマリがイニシアチブをとっていたが、ある時期から音楽的には藤沼がバンドを引っ張っているように見えだした。ベース・寺岡信芳の演奏力もまた目に見えてアップした。コバンこと小林高夫のドラムもますますパワフルになり、そうしてリズムセクションがどっしりしたものになったことで、端的に言うならグルーヴがとんでもなくすごいバンドになった。

 そして茂のボーカルはもとより唯一無二。ヤマハ主催のアマチュア音楽コンテスト『EastWest』で最優秀ボーカリスト賞(及び優秀バンド賞)を獲得した後にデビューしていることからもわかる通り初めから破格の出力と破壊力を有していたわけだが、やはりバンドの演奏力のアップと共に威力が増していった。タテノリでぶっとばすパンクバンドから、ヨコもタテも自在にいけて奥行きも表現できるロックバンドへ。『REBEL YELL』『デラシネ』『BEAT UP GENERATION』と、この頃のアナーキーはアルバムを出すごとにサウンドの進化と深化をはっきり示していたのだ。

 よって自分も歌詞より音とグルーヴを楽しみにアナーキーのアルバムを買うようになった。当時、そのことをきちんと伝えている音楽誌は自分が知る限りなかったが、リアルタイムでちゃんとそれに気づいていたミュージシャンは少なくなかったと、あとになってわかった。そのひとりに山下達郎がいる。山下達郎はこの頃、アナーキーの演奏力とグルーヴの強靭さ、ほかのバンドにない雰囲気に惹かれ、アルバムが出る度に買っていたと、インタビューした際に話していた。

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