『Neat’s ワンダープラネット』インタビュー

Neat'sから新津由衣へ、本人が明かす“DIY活動”からの転換「限界を知って手放せるようになった」

 元RYTHEMのYUIであり、2011年からは宅録のソロプロジェクト・Neat'sとして活動してきた新津由衣が、改名後初のアルバム『Neat’s ワンダープラネット』を7月11日にリリースした。同作は長らく一人でDIY活動をしてきた新津が、SEKAI NO OWARI、ゆず、でんぱ組.inc、SKY-HIなどを手がけるプロデュースチーム・CHRYSANTHEMUM BRIDGEに出会ったことから制作がスタート。ベッドルームから映画の世界へ舞台を移したような、壮大な作品に仕上がっている。

 リアルサウンドでは、これまでの活動や経歴を中心に、彼女へインタビューを行った。楽曲制作をはじめ、アートワーク、MV、絵本、ディストリビュート、紙資料まで制作する“完全”DIY活動を始めた理由や、いくつかの絶望、そこからの運命的な出会いと華麗なる復活などについて、じっくりと話を聞いた。(編集部)

「『MOA』と『Bedroom Orchestra』で自分の限界を見つけた」

ーー新津さんは、2011年にRYTHEMが解散となり、ソロプロジェクト・Neat’sを始動。1stアルバム『Wonders』から3rdアルバム『MOA』まで、ずっとお一人で楽曲制作をはじめ、アートワーク、MV、絵本、ディストリビュート、紙資料まで作られてきたんですよね。

新津:そうですね。2011年の2月にRYTHEMを終えて、6月からNeat’sを始動して、2015年の8月までは一人でやってきました。

ーーDIYで活動することを選んだ、というと語弊があるかもしれませんが、RYTHEM時代のスタッフや知り合いに頼ることも選択肢としてあったと思うんですけど、なぜそうしなかったんでしょうか。

新津:18歳のときにデビューしてたくさんの大人たちに囲まれて活動が始まっていったのですが、当時は子供だったから、「大人たちを驚かせたい」という、ただただピュアな欲求で音楽を楽しんでいたんです。でも、自分の年齢が大人になるにつれて、自分の心のバランスとメジャーの活動のスピード感が釣り合わなくなっていった時があって。音楽はこの先数十年経っても続けていきたいと思っていたのに、ただ消費される存在になってしまうかもしれないという恐怖にも襲われました。言葉にするとふわっとしちゃいますけど、ホンモノのアーティストになって独り立ちしないと、この先どこかで風に吹かれて倒れてしまうなと確信したので、基礎固めみたいなことがしたかったんです。

ーーそれが困難な道だったとしても、消費されてすり減ることを避けて、自分が強くなっていくことを選んだんですね。

新津:はい。そこからプリミティブな生活から生まれたことを音楽に落とし込むというオーソドックスなことをちゃんとやろうと思い、Neat’sをスタートさせました。当時、海外ではGrimesが出てきた時期で。今ほど“宅録女子”という言葉も根付いていなくて、「わたしもこうなりたい」と刺激を受けたんです。私、子供の頃からなんでもかんでもやらないと気が済まない性格だったので、「自分ができることをフル活用したら、私もGrimesみたいなことができるんじゃないか」と思い込んでいました。

ーーGrimesへの憧れ以前に、DIY的なものをやりたいと思った契機はあったんですか?

新津:私、元々の夢は「絵本作家」なんです。だから、一直線に音楽の道を目指してきていたミュージシャンとは、思考が違うという感覚があったんですよ。最初はそれをマイナスのように捉えていたこともあって。ミュージシャンって肩書きをつけられると、申し訳ない気持ちになっちゃうというか。でも、Neat’sをやることによって、音楽的ではない脳みそを持っている人は、同じフィールドにそこまでいないので、武器になるだろうと思えました。

ーーでも、当時のインタビューでお話ししているように、実際にNeat’sとして活動を始めてからは、うまくいかないことも多々あったようですね。いざDIYの活動に踏み出してみて、思っていた通りになったこと、逆にうまくいかなかったことは?

新津:両方の側面があるので、まずはうまくいかなかったことをお話しします。私は、一人の人間として、本当の自分を掘り下げようとDIYを始めたんですけど、それって「本当の自分は自分の中にいるはず」という前提だったんですよ。でも、いざ自分の中身を掘り下げたら、何もないということに気づいてしまった。空っぽである自分を目の当たりにしたときに、「どうしてこうなったのか」と絶望したんです。

ーーその「何もない」という感覚はあまり理解できないです。何かしらにはたどり着くんじゃないかと思うんですけど。

新津:私、ちょっと変わった子供で、どうしても大人になりたくなくて。大人になってしまうと失われるものが多い気がしていたので、子供のときに見えている世界、大人たちに守られている世界から離れたくなかったんです。子供の自分を握りしめながら大人という階段を上がってきて、いざ一人になったとき、溜め込んでいる自分の個性を爆発させてやろうとやってみたんですが、あるインタビューを受けているときに「私が大人になりたくないと思う気持ちって、全然ピュアじゃない」ということや、「大人になるということを受け入れて成長していく友達のほうがピュアでまっすぐな生き方をしている」ということに気づいてしまった。一気に自分の中が真っ黒けっけみたいに感じちゃって、握りしめてきたものも、宝物じゃなくてゴミだったんだと分かって、それがショッキングだったんですよね。

ーーなるほど。ではうまくいったと思う部分は?

新津:それは音楽制作以外のあらゆる創作物においても、自分の脳みそを使うことが武器になると実感できたことですね。周りの同じようなシンガーソングライターとして活動している友だちと話すと、私の考えている視点は音楽だけの目線じゃないところでのクリエイティブだと言われたので、そこは伸ばしていきたいと思って、修行のように経験を積んでいましたね。

ーー多角的なものを作ることによって、それがまたクリエイティブに返っていく、という経験は、ご自身で振り返っても大きかったですか。

新津:大きかったですね。やっぱり音楽って音だけじゃないと思うんですよ、目に見えるし、空間でもあるし。音楽以外の美術の創作物や、広告を作るときの脳みそって、音楽のフィールドにはあまり直結しないけど、私は応用できるものだと考えています。広告や美術の分野の方のインタビューを読むと勉強になりますし。

ーーNeat’sは、途中の段階で誰かに手伝ってもらう、という選択肢もあったと思うんですけど、それを選ばなかったのはなぜ?

新津:音楽を含めた360度の視点を自分がコントロールすることに、Neat’sというDIYの美学を感じていたからですね。

ーーなるほど。では、Neat’s以外の別名義で360度ではないものを作る、という発想もなかった?

新津:そこまで考えが至る前にスランプに陥っていたのかもしれません。これしか答えはないんだとその時は思っていたので。私は自己プロデュースが最上級かつ最善なんだと思い込んで、それ以外の方法をとったら負けだと考えいました。だけど、そこから先に行けなくて、Neat’sで活動していた最後の1年は自分の中を行ったり来たりしていましたね。

ーー3rdアルバム『MOA』のインタビューでは、並行して手がけていた『Bedroom Orchestra』でビジュアルチームと出会ったこともお話していましたが(参考:OTOTOY )、あのあたりから色んな方との出会いが生まれてきたんですか。

新津:あの2作はすごく自信があって、本当に自分のピークだと思っていました。でも、思ったより世の中に受け入れられなくて、自信をなくしてしまったんです。

ーー受け入れられてないと感じていたんですか。

新津:想像以上の結果が出せないということがジレンマでした。これが自分のすべてなのに。受け入れてもらえないんだったら、アーティスト活動をやめよう、というくらいまで追い詰められていましたね。自信はなくなったけど、その創作は楽しかったんですよ。

ーー僕はNeat’sのことを2ndアルバム『MODERN TIMES』で知ったんですけど、リアルタイムで聴いたのは『MOA』と『Bedroom Orchestra』で、すごく良い作品だと思ったんです。

新津:2ndのときにもダメだと思ったんですけど、3rdは遺作だと思って、自分の武器だと思えることをやってみた作品だったんです。

ーーこの2作は、今回のアルバム『Neat’sワンダープラネット』とも密接に絡む音楽性のように聴こえますよ。

新津:『MOA』と『Bedroom Orchestra』を作ったことで自分の限界を見つけられたのは、決して悪いことだけではなくて。その結果、自分の中にブレない軸を見つけることができたので、いろんなものを手放せるようになったんです。その軸は消しゴムでも消せない宝物だと思っています。昔みたいにぎゅっと握りしめなくても、自分の中に血として流れている細胞を見つけたみたいな感覚だったので。だけど技術的な側面においては、これ以上自分の技量では進歩が難しいと思っていました。クオリティを上げたいけどどうすれば……と思っていたときに、CHRYSANTHEMUM BRIDGEの保本(真吾)さんに出会ったんです。

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