5thアルバム『平凡』インタビュー
ドレスコーズ志磨が語る、強靭な音楽を求める理由「20世紀と同じテーマの歌なんて書いてられない」
ドレスコーズの新作『平凡』は、“ごくごく近未来の世界で発表されたとあるバンドの作品”という設定のコンセプトアルバム。個性的であることが恥ずべきこととされ、バンド演奏、アート活動などが嘲笑の的になっている時代において、アーティストはどうあるべきか、また、何を為すべきか?ーーあまりにも切実なテーマが反映された本作の最大の魅力は、じつはそのコンセプトワークではなく、“音楽そのもの”であると言っていい。そう、ディストピア的な未来像にどうしてもシンクロしてしまう我々の自意識を丸ごと吹っ飛ばし、快楽的なダンスミュージックへと誘うファンク・グルーヴこそが、本作のキモなのだ。
志磨遼平に彼自身が「音楽作品としての強靭さが、このアルバムのすごさ」と胸を張る『平凡』の音楽的な成果について、しっかりと語ってもらった。(森朋之)
「『ロックでなければ何でもいい』と思っていた」
ーーニューアルバム『平凡』がリリースされました。リスナーからのリアクションはチェックしてますか?
志磨遼平(以下、志磨):うん、エゴサーチでいつも見てますよ。
ーーまさに「エゴサーチ・アンド・デストロイ」ですね(笑)。
志磨:そうですね(笑)。今回のアルバムにはいつもにも増して思い入れがあって、リリース前は「理解されなくてもしょうがないだろうな」と思ってたんです。もののはずみで「そう簡単に理解されてたまるか」とTwitterに書いたりもしたんですけど、逆に「とことんこのアルバムに向き合ってやろう」と思ってくださる方も少なからずいて。「いわゆるポップスみたいなものとはちょっと違うようだ」と気付いてくれて、しっかり腰を据えて聴いてくれた人がいたのは予想外だったし、すごく嬉しいですね。「今週は○○と××のCDを買った。どれも良かった」みたいな感じではなく、「よくわからなかったから、もう1回聴いてみよう」だとか「『平凡』ばっかり聴いていて、他のCD聴けない」なんて言ってもらえるのは、願ってもないことなので。
ーー単なる情報のひとつではなく、芸術作品として捉えられていると。
志磨:そう言うと大げさですけどね。今回のアルバムは、テーマがバカでかくて、“消費”というのもそのなかの1つなんです。そういう作品が簡単に消費されてしまうのもオチとしてはおもしろいというか、皮肉が効いてていいなって思ってたんだけど。僕はポップスを“そういうもの”として捉えているので。みなさんが「これはいままで聴いてきた音楽とは様子が違うようだ」と思ってくれたのは、僕が込めた怨念のせいでしょうね。それくらい強い思いを込めているので。
ーーなるほど。このアルバムのいちばんの素晴らしさは、音楽そのものにあると思ってるんです。コンセプトを知らなくても、日本語がわからない人が聴いても「これはすごい」と感じるんじゃないかなと。
志磨:ありがとうございます。嬉しいです。
ーーサウンドの軸になっているのはファンク・ミュージックですが、今回、全面的にファンクを取り入れようと思ったのはどうしてなんですか?
志磨:もちろんファンクにも興味があったし、もっと言うと「ロックでなければ何でもいい」と思っていたんです。それはドレスコーズを結成してからずっと自分に課していたハードルでもあるんですけど、このアルバムでやっとクリアできた気がしているんですよ。たとえば8ビートではないリズムだったり、西洋のものではないビートや文化を取り入れたかったので。コード進行、メロディの展開など試してみたいことがいろいろあって、それがようやく、まとまったカタチで作品にできたかなと。いままでも小出しにしてたんですけど、“1枚まるごと”というのは初めてなので。
ーーこれまでの音楽的な試行錯誤がようやく結実したと。
志磨:はい。タイミングみたいなものもあったと思いますね。「いまやらねば」という感じがあったというか、洋楽を含めてポップスの構造がどんどん更新されるなかで「(音楽的な)転換をこれ以上遅らせるわけにはいかない」と。去年、デヴィッド・ボウイとプリンスが続けていなくなってしまったのも、理由としては非常に大きいです。彼らの訃報を受けて、何もリアクションを起こさないで過ごすことはできなかったし、それを作品として出したくて。
ーーデヴィッド・ボウイがブラックミュージックに接近した「Young Americans」(1975年)、「Station To Station」(1976年)がひとつのモチーフになっているそうですね。
志磨:それもね、よくできたストーリーがあるんですよ。毛皮のマリーズのときの話なんですけど、あのバンドがいちばん影響を受けていたアーティストのひとりがデヴィッド・ボウイで。解散ツアー(『TOUR 2011“Who Killed Marie?”』)のセットリストの最後が「THE END」という曲で、その後、ボウイの「ロックンロールの自殺者」を大きな音で流しっぱなしにして帰るという演出をやったんですね。それから何年か経って、一昨年、久しぶりにマリーズの西くん(越川和麿/G)とツアーを回ることになって。そのときに「『ロックンロールの自殺者』の続きをやろう」と思って、ライブの前に「アラジン・セイン」をかけたんですよ。
ーー「ロックンロールの自殺者」はデヴィッド・ボウイのアルバム『ジギー・スターダスト』(1972年)の楽曲で、その次の作品が『アラジン・セイン』(1973年)ですからね。
志磨:はい。その後のドレスコーズのツアーは「過去の曲を葬り去る」というテーマだったんですが(『the dresscodes R.I.P. TOUR』)、ライブ前に「ダイヤモンドの犬」(1974年リリースの『ダイヤモンドの犬』収録曲)をかけてたんですよ。その後はもう「ヤング・アメリカンズ」をやるしかないでしょ(笑)。しかも、一昨年の末に「ボウイが新作を出す。しかもブラックミュージックに接近したアルバムになるらしい」という噂が聞こえてきて。そのときにボウイと自分の周期が近づいたというか、自分自身がブラックミュージックに向かう過程がはっきり見えたんです。そこからなんですよね、『平凡』に進んでいったのは。だから、今回のアルバムは自分で作った感じがしないんです。世の中の流れをピックアップしただけというか。すごい大作なんだけど、自分が貢献したことはそんなにないっていう、不思議な作品ですね。