デヴィッド・ボウイは“文系ロック”の頂点だった 市川哲史が70〜80年代の洋楽文化ともに回顧
1月12日朝。
デヴィッド・ボウイの逝去を、テレ朝の『モーニングショー』が伝えている。その感想を当然求められたコメンテーター3氏は、青木理氏(ジャーナリスト)も浜田敬子氏(アエラ編集長)も玉川徹(テレ朝社員)氏も、口を揃えて「大学時代に経験した“レッツ・ダンス”の大ブレイク」を鮮烈なボウイ初体験として語った。
玉川氏が1963年生まれの52歳で、青木氏と浜田氏は共に1966年生まれの49歳。そして、シングル“レッツ・ダンス”と同名アルバムが共にボウイ最大のヒット作になったのが、1983年の春。言い換えれば、それまで〈最もメジャーなカルト・スター〉だったボウイが、一般的にスーパースターになった瞬間である。
だからコメンテーター3氏の「誤解」は間違っていないどころか、その世代の一般日本人ほとんどの共通認識に他ならない。
ではなぜ、ボウイはデビュー17年目にして突然〈誰でも知ってる恰好いい外タレ〉になれたのか。
もちろん、なぜか終末感を漂わせる“レッツ・ダンス”は、当時のダンス・ミュージック・ブームで異彩を放つポップチューンではあった。しかしそれ以上に、80年代初頭あっという間に全世界を席巻したヴィデオクリップ、いわゆる音楽ヴィデオ・ブームの到来がデヴィッド・ボウイのみならず、全ての状況を一変させたのだ。
例の“スリラー”に象徴されるように単なる演奏風景ではなく、短編映画すら連想させるほど凝りに凝った音楽の映像化は、まさに〈お洒落〉そのものだった。と同時に米英では音楽専門チャンネル《MTV》が開局し、日本でも『ベストヒットUSA』など最新PVを紹介する洋楽TV番組が続々と誕生。家庭用ビデオデッキの普及も大きい。また都会(失笑)では、インテリア代わりに店内でPVを流すカフェバー(←死語)が、雨後の筍のようにそこら中で生えた。
これだけ一気に身近な存在になった甲斐あって、海の向こうの最新ヒット曲が日本でも日常的に聴かれるようになり、「所詮マニアの音楽」と黙殺されてた洋楽がようやく市民権を得たのが、ちょうど1980年代初頭だったわけだ。で、そもそも視覚慣れしているボウイだもの、陽の目さえ見りゃブレイクする。