メジャーデビューアルバム『メジャー』インタビュー

SANABAGUN.高岩遼と岩間俊樹がめざす、音楽による革命 「リスナーの耳の鮮度を上げたい」

「俺らがレペゼンゆとり教育 平成生まれのヒップホップチーム こ、れ、が! SANABAGUNだ、味わえー!」
 しばしの沈黙のあとに咆哮するアジテート。漆黒の闇をたっぷり吸い込み、ただならぬ緊張感を放ちながら、8人の男たちが鋭利で、ぶっとく、徹頭徹尾グルーヴィーな、すごみというすごみに満ちた生音のヒップホップを響かせる。
 それが、平成生まれの総勢8人の男たちから成るジャズ/生ヒップホップチーム、SANABAGUN.だ。
 結成以来、そこが渋谷のど真ん中だろうが、ライブハウスだろうが、クラブだろうが、マイクと楽器を武器に携えた8人は目の前にいる聴衆を片っ端から撃ち抜いてきた。聴衆は気圧されながら、SANABAGUN.に心酔していく。
 そして、SANABAGUN.は満を持してメジャーデビューアルバム、その名も『メジャー』を完成させた。あくまでインディーズやストリートでリリースしてきたアルバムの延長戦上にあるという本作。これまでどおりのファイティングポーズをメジャー一作目で示すことが彼らの狙いでもある。
 2人のフロントマン、高岩遼と岩間俊樹にその音楽的なルーツを語ってもらいつつ、SANABAGUN.の譲れない信念を紐解いた。(三宅正一)

「俺はおまえらよりジャズだし、ブルースだし、ヒップホップなんで、よろしく」(高岩遼)

ーー高岩くんをはじめジャズをルーツにしているメンバーと、日本語ラップをルーツにし王道的なMCの存在感を発揮する岩間くんが固い握手を交わしたからこそ、SANABAGUN.には刺激的な化学反応が起こっていると思っていて。まず2人の音楽的な原風景から聞かせてもらえますか。

高岩遼(以下、高岩):小学校2年までは横浜にいて、それから上京するまでは岩手県宮古市にいました。親の意向で小1からピアノを習いまして。だから、最初はクラシックでしたね。うちは片親なので、俺が荒れないためにママがピアノを習わせてくれたと思うんですよね。2歳上の姉がいるんですけど、姉もピアノをやっていて。結局、姉は荒れちゃったんですけど、今は更生して素晴らしい人です。で、俺が小3のときに親の運転するクルマに乗ってるときにスティーヴィー・ワンダーの「涙を届けて」が流れてきて。俺、それを聴いて泣いちゃったんですね。

ーー感受性が豊かな少年だったんですね。

高岩:はい。感受性“も”豊かな少年でした(笑)。それで、ママに「早くこの曲を歌えるようになりたいから」と言って、英詞をカタカナに直してもらって。それが歌に対して興味を持った始まりですね。

ーーお母さんはブラックミュージックが好きだったんですか?

高岩:いや、うちのママはどちらかというと、クィーンの超ファンで。スコーピオンズとかも好きでしたね。ママはそこまでハイカラな感じではないです。普通に謙虚な人で。親父のほうがマイケル・ジャクソンとかソウルミュージックをよく聴いてたみたいですね。で、ママの兄貴が趣味の域を超えてPAとかやっちゃう人で。その人にBSでやってたスーパースターたちのMVが4夜連続で流れる番組を観せてもらって。その最終日に「USAフォー・アフリカ(の「ウィ・アー・ザ・ワールド」)」が流れたんですね。そこで初めてレイ・チャールズの声を聴いて「なんだこれは!?」って衝撃を覚えて。その衝撃の元がジャズでありブルースだったんですね。それが小6のときです。当時からハードボイルドな映画とかも超好きで。渋いものに憧れる傾向があったんでしょうね。

ーー学校生活でもヤンチャだったんですか?

高岩:ジャイアンっぽいキャラではありましたが、象のぬいぐるみと寝るようなガキでしたね(笑)。小学校は野球と合気道をやっていてヤンチャな感じもありつつ、家に帰ればブラックミュージックを聴いてる、みたいな。周りの同級生はJ-POPばかり聴いてたので、音楽の話が合うやつなんていなかったですけどね。で、中学生になって「もうクラシックはやりたくねえ!」となり、独学でブルースピアノとジャズピアノをやり始めて。地元の宮古市はジャズが盛んで、よくジャズジャイアンツたちが訪れる街なんですよ。僕のなかでジャズ=レイ・チャールズだったし、歌の世界だったので、インストルゥメンタルのジャズに対しては徐々に目覚めていった感じです。中学のときの部活は柔道部で、中2からヒップホップにハマってダンスもやってました。

高岩遼

ーー硬派な面とカルチャーに対して好奇心旺盛な面がずっと同居してますよね。

高岩:そのころからそうですね。「好きなことはなんでもやっちゃえ!」みたいな意識が強くて。DJ・ジャジー・ジェフ&フレッシュ・プリンスを聴いてヤベえってなって。僕のなかでは自然な流れだったんですよ。最初はソウルで、そこから逆行してブルースとジャズにいって、R&Bやロックンロールも通って、ヒップホップにたどり着いたのは。チャリに“thug life”と書いて走ってました(笑)。横浜にいたときからずっとスケボーで遊んでたりしていたガキだったから、ストリートカルチャーに対する憧れもずっと持ってましたね。

ーーフランク・シナトラとの出会いも大きいんですよね。

高岩:デカいですね。俺がフランク・シナトラを初めて聴いたのが「アラウンド・ザ・ワールド」という曲で。またその歌声を聴いて号泣したんですね。そしたらシナトラが黒人じゃなくて白人だということを知ってショックを受けたんですよ。でも、イタリア系のアメリカ人が移民の差別を受けながらも成り上がったというシナトラのバックグラウンドを知ってカッケえなと思ったんです。シナトラのマフィアとの関係性もちょうど『ゴッド・ファーザー』や『グッドフェローズ』の映画作品とも結びついて熱くなって。で、高校卒業後に上京して音楽大学に入るんですけど、俺はずっと坊主頭だったんですね。自分は黒人だと思ってたから。

ーー本気で思ってたの?

高岩:本気で思ってました。めっちゃ肌を焼いてたし、高校時代はラグビー部でそういう規則はなかったんですけど、ずっと3ミリの坊主頭にしてました。普段は頭にバンダナを巻いて。でも、大学に入ってから、ある日自分の姿を鏡で見てリアルに気づいちゃったんですね。「あ、俺は日本人なんだ」って。

ーー遅っ!(笑)。

高岩:薄々気づいてはいたんですけどね(笑)。でも、自分が黒人じゃないと悟ったときは超ショックでした。それで髪を生やし始めたんです。そこから日本人としてのプライドを背負って、黒人音楽に勝ちたいと思うようになったんです。「俺はおまえらよりジャズだし、ブルースだし、ヒップホップなんで、よろしく」っていう意識に切り替わった。19歳のときに初めて刺青を入れたんですね。大好きなおじいちゃんとおばあちゃんの名前を入れて。2人を背負って生きていこうと決めて。

ーー大学ではジャズボーカルを学んだんですか?

高岩:ジャズボーカルとジャズのカルチャーを学びました。ジャズの歴史に日本人が全然出てこないことに「ふざけんな!」とか思いながら。

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