香月孝史が『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』を分析
乃木坂46のドキュメンタリーが描く「アイドルであること」の意味 AKB48版との比較を通して読み解く
「アイドルのドキュメンタリー」は、過酷さや苦悩を映し出す。今日、そんなイメージが強調されがちなのは、いうまでもなくAKB48のドキュメンタリー映画群の影響によるところが大きい。高橋栄樹監督による一連の作品は、AKB48が抱える過剰な負荷や不条理に肉薄したことでファンの外にまで届く話題性を獲得し、さまざまに議論の種にもなってきた。
けれども、実のところAKB48が提供するドキュメンタリー映画が、はじめからそのようなルックを持っていたわけではない。高橋栄樹体制になる以前、2011年1月公開のAKB48ドキュメンタリー映画第1作『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』(監督:寒竹ゆり)についていえば、AKB48の「過酷」イメージをさほど担うものではなかった。その映像には今日AKBのドキュメンタリーと聞いてイメージするほど過酷で理不尽な何かが映されてはいなかったし、ドキュメンタリー用にあらためて撮影されたインタビューカットが大きな割合を占めたことで、どこかよそゆきに整えたような見た目になっていた。AKB48が普段提供しているコンテンツの数々がきわめてドキュメンタリー的にアイドルのパーソナリティに迫るものであるぶん、この「ドキュメンタリー映画」の方がむしろ、普段のコンテンツに比べて“ドキュメンタリー”性が薄いという倒錯した趣きさえあった。
そして、7月10日に公開された乃木坂46初のドキュメンタリー映画『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』(監督:丸山健志、以下『悲しみの忘れ方』と略記)のつくりからまず想起したのは、その寒竹ゆり監督版AKB48ドキュメンタリーのことだった。
実際、今作『悲しみの忘れ方』は、具体的な要素において寒竹版AKB48ドキュメンタリーとの共通点が多い。選抜メンバーのうちから限られた人数を特にフィーチャーして映画用にインタビューを行ない、そのカットに大きな比重を置くバランス、メンバーの“プライベート”の象徴としてのショッピングシーン、あるいはメンバーの地元を歩き親族や友人との交わりから“素”を引き出そうとする手法などは、寒竹版の特徴とも通じている。これら、ドキュメンタリー映画用にあえてセッティングされた取材内容は、作品全体を落ち着いたトーンのものにする。起こった出来事をそのまま追いかけ、シリアスな映像素材をある意味で剥き出しのまま見せるような高橋栄樹の作品群とは対照的ともいえるだろう。AKB48にとって初めてのドキュメンタリー映画だった寒竹監督版の第1作と、同じく乃木坂46にとって初めてのドキュメンタリー映画である『悲しみの忘れ方』とは、しつらえられた場でメンバーたちの姿を捉えるシーンが映画の進行を先導する点で、外面的には相似性をもっている。
しかしまた、両者にはやはり決定的な相違も生じている。
『悲しみの忘れ方』は全体を静的なトーンでまとめながらも、寒竹版に比べて、メンバーが不条理な負荷によってあからさまに疲弊し、心身の限界を露呈するカットをはっきり見せている。この点が一つ目の相違点だ。これはおそらく、作り手ごとの作風のみならず、ここ四年間ほどのあいだに、「アイドルのドキュメンタリー」とは何を見せるものなのか、どこまで踏み込むものなのかについての基準が自然に確立されたことも影響しているように思う。本作は、わかりやすくショッキングな映像を突きつけることに重点を置いてはいない。しかしそれでも、寒竹版公開当時の2011年初頭にこの作品が公開されていたならば、中盤のあるシーンは今よりずっとセンセーショナルな映像として受け止められただろう。我々受け手はこの幾年かで、「アイドルの疲弊」が映し出されることに慣れすぎている。この作品全体が抑制をきかせ寒竹版との相似を感じさせるだけに、寒竹版以後の数年間で「アイドルのドキュメンタリー」が、どれほど「剥き出し」であることを当たり前にしてきたかを思い知らされる。