『火垂るの墓』『この世界の片隅に』は“反戦映画ではない”のか 高畑勲監督の発言などから検証

『火垂るの墓』は“反戦映画ではない”のか

『火垂るの墓』は“反戦映画ではない”のか

 優れたアニメーション作品を作り続け、アニメ界や映画界に多大な功績を残した高畑勲監督。その代表作の一つが、作家・野坂昭如の短編小説の映画化作品『火垂るの墓』だ。親を失った14歳の兄と4歳の妹が、戦時下に地域の共同体からはなれ、2人だけで困窮した生活を営み、死に向かって衰弱していくという内容が、映画の観客やTV放映時の視聴者に衝撃を与えた。その陰惨さに「二度と観られない」と語る人も少なくないほど、真に迫る作品である。

 『火垂るの墓』が公開された1988年は、まだ日本の敗戦から43年。野坂昭如が自身を基にした主人公の清太が、もし実在し命を落としていなければ、57、8歳だっただろう。当時はまだまだ戦時中の記憶を持った人々が大勢いた。しかし、野坂昭如も高畑監督も亡くなった現在、すでに敗戦から73年の月日が経っている。ここまでの間に日本の状況も様変わりした。

 片渕須直監督の『この世界の片隅に』(2016)について、「反戦映画でないから素晴らしい」「戦中の時代も楽しさがあったじゃないか」などという声を、インターネットで見かけるようになった。『火垂るの墓』についても「反戦映画ではない」「主人公が死んだのは自己責任だ」という意見が見られる。この言説が広がる根拠の一つになっているのは、高畑勲監督自身が、いくつかの取材で確かに「反戦ではなかった」と語っているということである。

 では、それらの意見の通り『火垂るの墓』や『この世界の片隅に』などの作品は本当に“反戦映画ではない”のだろうか。ここでは、高畑監督の発言も含め、作品をしっかりと噛み締めて味わうことで、そのことを検証し、なぜそのような声があがるのか、そして『火垂るの墓』に描かれているものをふたたび考えていきたい。

高畑監督にとっての反戦映画とは

 まず、高畑監督が言う「反戦映画」とは何なのかを考えたい。高畑監督は2015年に神奈川新聞の記事の中でこのように語っている。

「原爆をテーマにした『はだしのゲン』もそうですが、日本では平和教育にアニメが用いられた。もちろん大きな意義があったが、こうした作品が反戦につながり得るかというと、私は懐疑的です。攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか」

「なぜか。為政者が次なる戦争を始める時は『そういう目に遭わないために戦争をするのだ』と言うに決まっているからです。自衛のための戦争だ、と。惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる」

 ここで高畑監督が述べているのは、「反戦」というのは戦争を止めるための実効性をともなっていなければならないということである。そしてその厳しい基準でいえば、『火垂るの墓』はそこから外れてしまうし、あれだけメッセージ性の強い『はだしのゲン』ですら、高畑監督にとっては、開戦を望む執政者の詭弁を覆し得るような反戦作品ではないという。だがそこまで言ってしまうと、そもそも「反戦映画」というものは今までに存在したのかという話になってくる。

 このインタビューからも分かる通り、高畑監督のなかには、戦争への怒りと、これからの社会への強い危機感が渦巻いていた。そこまで深く考えていたからこそ、高畑監督は、むやみに自作が反戦だというような話を口に出せなかったのだと思われる。そしておそらく、その裏には「平和教育アニメ」とは違う受け止め方をしてほしいという願望が込められていたように感じられる。

文学性がテーマに与える“揺らぎ”

 日本で「近代文学」が成立したのが明治期といわれる。日本の明治期の文学は、勧善懲悪を描く「戯作文学」、政治思想を主題とする「政治小説」が中心だったが、「写実主義」によってそれらの要素を排除し、美しいものも汚いものも描きながら、もっと人間の真実をつかみだそうとする動きが生まれたのが、この頃であった。そこから文学は、より現実に近い、曖昧で謎めいた複雑さを獲得することになっていった。

 『火垂るの墓』が目指しているのは、高畑監督がそれまでに培ってきた、「生活を丹念に描くことで人間を描く」という作家性を駆使しながら、悲惨な運命をたどる兄妹の暮らした日々を、リアリズムによって描写しぬくということであろう。高畑監督は、これまで以上に写実性を高めることによって、本質的な意味において近代文学に肉薄していく。そして、そこから得られる実感によって、時代の壁を越えて現代の若い観客と戦争の被害に遭った人を結びつけるというねらいがあったはずだ。そのかつてない実験は、アニメーション表現の枠を広げる挑戦でもある。

 漫画を原作とした『はだしのゲン』(1983)や『火の雨がふる』(1988)などの「平和教育アニメ」 では、戦争責任の所在をより明確に示している。テーマが明確になるほど、作品における各々の描写はテーマへと収斂されていき、「戯作文学」や「政治小説」へと接近し、近代文学的な写実性からは離れていくことになる。『火垂るの墓』は、一つのテーマを観客に叩きつけるというものにはなり得ていない。だからこそ観客による自由な見方を許してしまいもするのだ。だがその一方で、耐えがたいほどのリアルさを獲得しているのも確かなのである。

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