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小野寺系の『最後のジェダイ』評:ディズニー帝国の『スター・ウォーズ』に新たな希望は生まれるか?

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『最後のジェダイ』は「革新」を目指す

 本作で描かれるのは、レイア姫率いるレジスタンスの「撤退戦」である。奇襲爆撃作戦によってファースト・オーダーの艦船を轟沈させたレジスタンスが激しい追撃に遭い、徐々に仲間の数を減らしながら逃げ続けるという内容だ。

 旧三部作において、真ん中のエピソード『帝国の逆襲』は、ファンの間で「最高傑作」との呼び声が高いため、初めて超大作に大抜擢されたライアン・ジョンソン監督にはプレッシャーがかかったはずだ。だが果敢にもライアン・ジョンソンは、脚本を単独で書き上げることをスタジオに納得させる。ただ実際には、脚本家としてのキャリアがある、レイア姫役のキャリー・フィッシャーにも助力を頼みながら、ルーカスフィルムのスタッフたちに相談を重ねて書き上げられたようである。ともあれ、ジョージ・ルーカスがシリーズ中に多くの作品で行ったように、ライアン・ジョンソンがストーリーの「創造」に挑んだというのはたしかだ。

 そこは、「バッド・ロボット・プロダクションズ」という自身の城を持ち、客観的な判断力を持つJ・J・エイブラムスとは違うところだろう。『スター・ウォーズ』シリーズの1作を撮ることができるという千載一遇のチャンス…ここでライアン・ジョンソン監督が自身の創造性を正面からぶつけてみたいという欲望に駆られたことは容易に想像できる。かくして『最後のジェダイ』は、前作とは方向を変えて、いままでにないような衝撃の連続を見せていく作品となった。

 本作では、伝説のジェダイとして知られたルーク・スカイウォーカーが隠居する惑星の孤島で、歴史あるジェダイの書物が焼かれるという場面がある。それは、ジョージ・ルーカスによる過去の聖典たる、いままでの『スター・ウォーズ』シリーズの”外形的な”魅力と決別し、ただ魂だけを受け継ぐことが重要だということを描いていたと感じられる。そして、そこで語られた「師とは超えられるために存在する」というセリフは、「ジョージ・ルーカスを超えていく」という宣言になっているはずだ。『フォースの覚醒』では懐古主義を批判していたジョージ・ルーカスが、本作で好意的な意見を表明しているというのは、おそらくこの部分の覚悟を買ったのだと思われる。監督の作家性という意味でいうなら、前作がゴリゴリの「保守」であるのに対し、本作は「革新」だといえるだろう。

 具体的に何が「革新」なのか。それは、多くのファンが「『スター・ウォーズ』らしさ」だと思っているところの、あえて「逆」を行く展開を連続させている点だ。それは、生々しい殺陣や「特攻」すら辞さない残酷な描写、ケリー・マリー・トランが演じる、平凡な整備士が銀河系の命運を握る任務で活躍するのも、『スター・ウォーズ』ファンの象徴のようだったカイロ・レンがダース・ベイダーへの憧れとコスプレのようなマスクを捨て、独自の道を進んで行くことも然り。そして何より、「スカイウォーカー家」の血筋による争いから脱却しようとする描写がショッキングだ。ジョージ・ルーカスが「処女懐胎」の要素をエピソード1に与え、『スター・ウォーズ』をキリストの物語にしたように、本作ではキリストが誕生した「馬小屋」を思わせる場所で奇跡を描くことで、新たな神話をもう一度始めようとする。

『スター・ウォーズ』スタイルの破壊

 本作は、批評家・評論家が概ね好意的な評価を与えているのに対し、一部のファンの間で激烈な拒否反応が起こっているという点が特徴的である。その理由は様々だろうが、前者が評価しているのはおそらく、前述したように作家主義に戻していこうという意志に対してであろう。評論家は作品の”裏を読んでいく”という役割がある。表面的なストーリーの裏に隠されている、ライアン・ジョンソン監督の情熱に触れ共鳴しているのだ。本作を評価する一部のファンも、そこに惹かれている場合が多いだろう。では、今回の対立は「保守」対「革新」の衝突なのか。たしかにそういう面もあるのだろうが、そうとばかりもいえない部分がある。

 本作の脚本が描くものは、まず「撤退戦」の行方という、表面的なストーリーである。そして、その背景にある「選ばれし者」でなく平凡な人々が力を合わせるという作品のテーマ、さらにその背後に存在するライアン・ジョンソン監督の作家宣言という、大きく分けると三層の構造になっている。本作を批判するファンは、評論家を中心に評価されているような背景の部分ではなく、むしろ表面的な部分で様々な瑕疵を挙げている。つまり、評価の軸が異なっているのである。

 それでは、いったん視点を変えて、基本的なストーリーを見ていくと、やはりいろいろな問題点を見つけることができる。テーマを大事にするあまり、衝撃的な展開や、旧シリーズの流れにあえて反するような描写にこだわったことで、かなり無理があるものになっているように感じられるのだ。

 意外な描写を挙げていくと、例えば、霊体となったジェダイが、雷を操るという物理現象を引き起こしたり、フォースの訓練を積んでいないはずのキャラクターが優れた超常的能力を発揮したり、ハイパースペース航法を利用した攻撃や、ライトセイバーの機能を利用した反則技、見たこともないジェダイの新能力…。たしかにこれらは派手に見えるし、「その手があったか!」と一瞬は興奮させられるのだが、数秒後には「いや、待てよ…」と思えてくる。

 ここで使われているのは、過去に提示されたルールのなかで観客を驚かせるのでなく、後付けの設定によって観客を驚かせようとする手法なのだ。それによって、「こういうことができるのなら、なぜ過去の物語においてそういう選択肢が語られなかったのか」、「なぜその対策が講じられてこなかったのか」というような矛盾が発生することになる。ときには後付けの設定もいいだろう。しかし本作は、そればかりに頼っているように感じられる。そういうことでしか驚きを生み出せないのだとすれば、脚本製作の手腕を疑わざるを得ない。面白くするために新しい設定を出して対処する…本作は『スター・ウォーズ』を、そのような丼勘定、自転車操業のお手軽な作品にしてしまったように感じられるのだ。

 ファースト・オーダーの最高指導者スノークの本作での処遇も大きな問題であろう。彼は銀河系をどうしようと考えているのか、カイロ・レンをどのように利用するつもりなのか、バックグラウンドはどうなっているのか。これらは前作で提示されていた謎だったはずだ。しかし、それを本作ではあっさりと放り出してしまう。これにより『フォースの覚醒』での思わせぶりな演出が陳腐化してしまうことはもちろん、描かれるべき戦いの背景や奥行きが一気に平板化してしまったように思える。

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