『昼顔』の上戸彩はなぜ圧倒的に艶っぽい? 姫乃たまが“不倫と神さま”の関係を考える

『昼顔』上戸彩はなぜ艶っぽい?

「僕ね、上戸彩を神さまだと思ってるんですよ」

 いつだったか、不意に編集さんから言われて、彼女を思い出してみたのですが、やはりよくわからなくて、「はあ」のような、「ほお」のような、その中間みたいな声で返事をした記憶があります。

 彼は『3年B組金八先生』で性同一性障害の中学生を演じる彼女を見て、こんなに美しい子が世界にはいるのかと衝撃を受けました。その後、働いていた会社のイメージキャラクターを彼女が務めていて、毎日彼女と顔を合わせる(=勤務先にポスターが貼ってある)生活を続けているうちに、彼の中で彼女は神格化されていったそうです。上戸彩はすべての美しいの基準である、というふうに。

 私には、だからこそわかりませんでした。ケータイ会社のキレイなお姉さんという印象があって、改めてその魅力について考えたことがなかったのです。私はどちらかというと、人の“適切でない”部分に魅力を見つけてしまうところがあって、非の打ち所がない彼女はそれこそ神さまのように、私の目には遠くて見えなかったのです。

 私たちは映画館に彼女を観に行きました。彼にとっての神さまである彼女は、スクリーンの中で神さまに祈ったり試されたりしていて、そして私は初めて上戸彩を見た気がしました。“適切でない”愛に身をやつし、心身共に居場所を追われてもなんとか生活を続ける姿は、圧倒的に艶っぽかったのです。


 映画『昼顔』は、2014年の夏に放送されていたドラマ「昼顔~平日午後3時の恋人たち~」の続きであり、完結編です。それぞれ結婚していながら恋人同士になってしまった、笹本紗和(上戸彩)と北野裕一郎(斎藤工)はドラマの終わりに別れを余儀なくされました。それから3年が経った2017年の夏、夫とも別れて誰も知らない海辺の町でひとり暮らしている紗和が、再び裕一郎と出会ってしまうのです。

 たしか、スポーツ紙に「不倫は文化」なんて見出しが踊っていた時期もあったと思うのですが、あまりに大らか過ぎて、もう何百年も前のことのように思えます。いまそんなミスリードを書こうものなら、見出ししか読めない人たちに火が付いて、正義感と嫌悪感のやり場のない人たちが苛立ちを抑えられなくなるでしょう。法律では殺人も窃盗も禁じられていますが、とりわけ不倫に関しては当事者以外の、好奇心や嫌悪感や正義感を、経験の中の愛や傷や憎しみを強く呼び起こします。ドラマ放送時と比べて世間は、控えめに言っても集団不倫ヒステリー状態です。そのため劇場版では、不倫の甘美さが延々と描かれるわけではありません(こっそり期待されている方にお知らせしますが、肌の露出も多くありません。しかし、それよりも素晴らしい映像が続きます)。

 再会したふたりの元に、裕一郎の妻である乃里子(伊藤歩)が現われて、奪う側と奪われる側の愛情を巡る、痛みや憎しみが映し出されます。不倫についての倫理観を問うだけでなく、愛によって生まれる業を追求しているからです。

 相手を奪ったはずが、自分の居場所を失い、手に入れたはずの相手の気持ちも、自分自身も見失い……そんな心境の荒波に揉まれる上戸彩が色っぽいのです(本題です)。

 映像はフェティシズムに溢れています。特に、海辺の町に暮らし、蛍のいる川で北野と逢瀬を重ねる彼女はよく濡れます。長靴を履いて男の子のように川を渡り、前髪が顔に張り付くほど海に溺れるのです。その姿がなんとも色っぽいので、何度も繰り返し流れる、海辺を自転車で走る彼女の映像が、自然と官能的な意味を持ち始めます。また、彼女のひとり暮らしは、発泡酒を飲みながら料理をするような生活感に満ちていて、伸びをする猫のように警戒心のない体勢で扇風機の風にあたるシーンなど、夏と色香が匂い立つ素晴らしいシーンでした。


 もし上戸彩が会社にいたら僕はおかしくなってしまうと編集さんは言いますが(改めて書くと、なんだこの会話)、そう言われてみると紗和が最強のサークルクラッシャーにも思えて可笑しいのです。

 可笑しいというか、少しでも余裕を持ってそういうことを考えていないと、あまりに気が重いジェットコースターに乗ってしまったようで辛いのです。どんな大恋愛だって、卵焼きの味の違いひとつで一生顔を合わせなくなることだってあるのにとか、そういうことを考えながら見ていないと、あっという間に地に足がつかなくなります。

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